プロフィール

半覚才

地球の過去と今と未来を見つめる3匹
のスペースキャッツ

Author:半覚才
自然とともに生きる、生き物が好き!
ホームページ「川越を遊ぶ」

そのニュースは本当か?
報道に疑問を!体制に批判を!権力の奴隷にはならない!

QR

ご意見・リンク等
★★★★★★★★★★★★★★★★
【ご意見・ご質問】
ご意見・ご質問はこちらからどうぞ。

また、回答を希望しないコメントは、コメント投稿蘭からお気軽にどうそ。


【Link Free】
転載、引用、リンクはご自由にどうぞ。 ただし、情報源は明示してください。

★★★★★★★★★★★★★★★★
最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
気になる地域の気になる情報
日本の原発

稼働状況と建設計画

気になる地域の現在の放射線量
気になる地域の天気情報


電力会社別の電力使用状況

地殻変動


-占い-

スポンサーサイト

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング

加藤清正

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
永禄5年(1562)、尾張中村生まれ。加藤清忠の子。幼名、虎之助。
清正の母は、「虎の友達は財産(宝)だ」と言って、彼の周りに集まる子供たちもわが子のように惜しみなく慈しんでいたと言う。
子供のころからの竹馬の友として森本儀太夫と飯田覚兵衛がいて、ある日、剣の試合をして勝ったものが主君になり、負けたものが家来になるという約束をした。
清正が勝ち、その約束は守られ、二人は清正の両腕として信頼される主従関係を結び続けた。

若い頃は、福島正則(市松)、片桐且元(助佐)と並び扱われ、特に秀吉の正室ねね(高台院)は、乱暴者だった虎之助や市松より、目端が聞き気配りの出来る助佐を可愛がっていたようだが、年経るにつれ加藤清正が頭角を現し、壮年期には頭一つも二つもぬきんでるようになった。
特に片桐且元は、機転のよさが弱気につながり、他の二人に大きく水を開けられてしまい、晩年には家康と淀君の間に立って、苦しい思いをするばかりだった。

関が原前、五大老の中でも最実力者だった徳川家康が、「新たな戦の火種を消す」と言う正当な理由をもって東下するのに従ったのは、当時の状況としては当然であったろうし、それに対し、小賢しく密かに上杉景勝と謀り、他の諸将と事前に相談することも無く、また豊臣秀頼を正面に担ぎ出すこともなく東軍を挟み討とうとしたのは、いかにも狭量な作戦で個人的な恨みに見えたために、これに賛同しなかった加藤清正や福島正則他の諸将たちの行動は、必ずしも「三成憎し」のみではなかったろうと思う。

清正は、家康を支持する一方で終生豊臣家への忠誠を忘れることなく、家康が江戸幕府をひらくと、これに臣従しつつ豊臣と徳川の関係調整に奔走し、二条城での家康と秀頼の会見を実現させるなど、秀頼との関係を断たずに尽くした。
後に徳川家から追及された時に、清正は「新恩のために旧恩を忘れることはならず」と堂々と答えたと言われている。
また、熊本、大阪、江戸を行き来する際、故郷の尾張中村を通るたびに、大人にも子供にもいちいち声をかけ、新しい桶にいっぱいの餅を入れて配ったといい、そのおかげでこの地方の人たちは、当時の生活必需品であった桶を何年も新調する必要がなかったという。

肥後における清正の治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮し、徳川家の大名への消耗作戦とも言えるたび重なる城普請要求にも平然とこたえたばかりか、実戦的で壮大な熊本城も作り上げてしまい、その底の見えない財力に、さすがの家康も驚き恐怖を感じたという。
熊本城築城については、家康も許可を与えていたと言われるが、当時は、豊臣家が大人しく臣下の礼をとるなら、熊本に移そうかと言う考えがあったのかもしれないし、清正は清正で、いざとなったら秀頼を熊本城に迎え入れて家康と一戦交えるのも辞さない考えだったのかもしれない。

一説には、二条城での会見により家康の秀頼に対する警戒心が強まり、豊臣家倒滅へ動き出し、難癖をつけて大阪冬、夏の陣へと持ち込んだと言われている。
そのこともあって、清正が、京都からの帰国途中の船内で急に発病し、ついに熊本で死去した(享年50)のも、その後、豊臣家恩顧の大名が相次いで急死したのも、家康の指示により毒殺されたのではないかと言う説が流れた。
その真偽はともかくとして、家康が一目も二目も置かざるを得なかった武将達がいなくなったのは、家康にとっては幸いであったのは確かだろう。

因みに、「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人は清正で、「隅本」よりも「熊本」の方が勇ましかろうと言う理由だったと伝えられている。
朝鮮の役ではトラ退治を始めとして逸話も多いが、セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」であることは知る人は少ないかもしれない。

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
スポンサーサイト

人斬り半次郎

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
中村半次郎、後に桐野利秋(元々の姓)と名乗る。
薩摩国・鹿児島郡吉野村に生まれる。

薩摩の最下級武士(城下士)で、若くして父が徳之島に流罪になり家禄を召し上げられた上、18歳で兄を亡くして家を継いだために非常に貧しい暮らしだった。
近所の立ち木を相手に木刀を振るい、何本もの木を折ったというほどの努力家で、ほとんど独学ながら示現流の達人の域に達していたようだ。
逸話として、雨粒が軒から地面に落ちるまでの間に、三度抜刀して鞘に収めたという話も伝わっている。
二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、「そんな些細なことで喧嘩するのは男としてつまらん」と言って、決闘を避け、以後は親交を結んだほどで、後に人斬り半次郎と言われるような凄惨な人物ではなかったようだ。
ただし、京都では、近藤勇をして、「中村半次郎だけは相手にするな」と言わせるほど周囲からは恐れられていたようで、友人の一人は、「半次郎は、切るといった相手は必ず切った」とも言っている。

長州寄りの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいことがうかがえるが、結局、長州は暴発し禁門の変となった。積極的に戦っていたという話と、極力戦闘を避けて長州人を助けたというような話と、後世、正反対の証言が残っている。
人と議論することが好きだったようで、熱中すると徹夜もいとわなかったとも言う。
またその議論は、正論、理想論だったとも言われ、熱い心の持ち主だったことが窺われる。

薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ね、ある日京都見回り中に、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺したが、短銃に手をかけた赤松の発砲より速く、一刀のもとに切り下げた。
また、坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡等に奔走した。
静岡で西郷と山岡鉄舟の会談を護衛し、次いで江戸にのぼり、西郷と勝海舟との会談を護衛し、上野の彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門口攻撃に参戦した。
この戦いののち、湯屋からの帰りに一刀流の剣客鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失ったことは、後に本人が書き残している。
会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務め、儀式に臨んで「涙を止めることができなかった」と語っており、作法に則り、温情を持った処理で、松平容保から感謝の刀を送られたとある。
評判とは裏腹にこの大役を見事に果たせた理由を聞かれて、「寄席で赤穂浪士の講義を聞いて、城受け取りのやり方を覚えた」と謙遜しているのは、なんともほほえましくおかしい。
その後、北海道に視察に行き、札幌に鎮台を設置することを上申したことが、のちに屯田兵派遣のきっかけを作った。
明治6年、征韓論争に敗れた西郷隆盛が下野するや、真っ先に辞表を提出して帰郷した。
鹿児島では、原野を開墾して日を過ごしていたが、私学校生の暴走を知ると「早まったことを、、、。」と舌打ちしながらも、引き戻すこともならずこの戦に先頭を切って参加した。
最後は、西郷も白刃を引き抜いて駆け回るほどの白兵戦となったが、西郷が被弾し、別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、額を打ち抜かれて戦死した。享年40歳。

西郷隆盛は彼を評して「もし彼にもう少し深い学問(主に漢文)があれば、自分などはるかに及ばないだろう」と言っている。
『丁丑擾乱記』には、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」とある。また同書には、「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。
後年、大隈重信は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)と評している。
陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング

首吊りの足を引っ張った人たち

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
阿部正弘という人は、人によって大きく評価が分かれる人で、そういう意味では日本人には非常に多いタイプです。

天保14年(1843)閏9月11日、田沼意次、水野忠邦の失脚の後を受けて老中に任命されました。
この年、オランダ国王がを送って来た親書には、イギリスと中国の間のアヘン戦争のことや、アメリカ、ロシヤなどの諸国が極東を狙い始めたこと、日本の造船、軍事産業の遅れなどが書かれ、これ以上鎖国を続けることは危険であると書かれ、今までの長年の付き合いのお礼として、国際慣行その他について色々と教えてあげたいという親切なものでした。
オランダとしては、このまま日本が鎖国を続けている方が莫大な貿易利権を独占できるので好都合なのですが、永年の厚誼を考え、自らの利益を捨てて日本のために開国を勧めてきたものです。

しかしせっかく、予備知識を得た上で国際社会に出て行くチャンスを貰ったにもかかわらず、なぜか、阿部正弘はそれを無視してしまいました。

その後まもなく日本を訪れた国はアメリカで、当時のアメリカは太平洋で盛んに捕鯨をしており、そのための食糧や水などの補給基地として、どうしても日本と友好関係を持ちたかったのと、世界の先進諸国が新たな植民地を開拓しようとアジア諸国に目を向け始めている状況から、1852年、東印度艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦(内2隻が蒸気船:黒船)を従えて、開港要求の強固な意志を伝えにやってきました。
その結果抵抗むなしく、砲撃などの威嚇に屈して、下田と函館を開港する線で妥協が成立し、日米和親条約が締結されました。

その後も外国人嫌いの阿部正弘は、ハリスと直接交渉する役を、単なる出先機関にすぎない下田奉行に押しつけ、ハリスに対してもその奉行と相談するようにと書簡を出しました。
その結果、二人の下田奉行とハリスの間で、調印されたのが、いわゆる下田条約です。
これは当初の和親条約よりさらに踏み込んだ通商条約となるものでした。

安政4(1857)年6月4日にこの条約は公布されますが、世論は、その内容の問題性よりも、攘夷思想的観点から一斉に非難を浴びせることになります。
阿部正弘はこの交渉のさなか、安政4年6月17日、39歳の若さで急死してしまい、この後の政局運営は取り敢えず佐倉藩主・堀田正睦が引き継ぎますが、朝廷との交渉に失敗して失脚、次いで彦根藩主・井伊直弼が登場するのですが、桜田門外の変で暗殺され、幕府は自ら崩壊していくことになります。

当時の将軍だった家慶は老中水野忠邦に父の佞臣達の首を切らせ、天保の改革を開始させる程度の意欲はあったのですが、御三家等から改革に対する抵抗が強まると、庇うどころか、たちまち忠邦を罷免してしまうという、まことに暗愚な将軍でした。
また、当時活躍した福地源一郎の書によれば、「人気に障らぬように注意せよ、物議を惹起してはあいならぬぞ」というのが口癖だったというのですから、典型的な八方美人型の性格だったようです。
保守派並びに世間に不評だった田沼意次を死ぬまで庇い抜いて、改革を実施させた10代将軍家治との器量の差は歴然たるものがあるといえます。

阿部正弘は、名門の御曹司であるにもかかわらず、多くの下級幕臣やさらには土佐の漁民にすぎないジョン万次郎を起用し、出自に対する偏見のなさを示しましたが、彼の不運は、伝統的な名君ではとうてい対応できない新しい時代に、沈みゆく幕府の舵取りを担わなければならない点にありました。
官僚は、従来から決まっている方針をそのまま遵守すべき場合には、仕事を安心して任せておけます。
しかし、新しい事態に即応して新しい方針を立てる場合には、政治家自らが決断を下し、導いていかねばなりませんが、若く経験も浅い名門の貴公子には正しい舵取りをする力はありませんでした。

彼の前の老中である水野忠邦は、外国情報収集の必要を痛感し、それまでオランダ政府から得ていた定例報告の和蘭風説書に加えて、別段風説書の提出を特に求めて、正確な海外情勢の把握に務めました。
水野忠邦が、家斉の発していた異国船打払令を廃止して、薪水給与令を発したのは、そうした情報に基づいて下した理性的な判断によるものでした。
印旛沼を通過する運河を、田沼意次は、経済の振興のために計画したことはよく知られていることですが、水野忠邦の場合、江戸防衛計画の一環として印旛沼運河を計画しました。
もし外国が浦賀水道を封鎖すれば、たちまち首都は日常生活に困ってしまう状況にあったわけです。
そこで内陸に運河を建設するとともに、浦賀近辺を守るために、砲台も新たに相当数建設しています。
その忠邦の江戸・京阪神防衛政策の要として、江戸及び大阪周辺の土地をすべて幕府の直轄地にしようと計画しましたが、このため御三家を始めとする、財政難に苦しむ諸藩の強い抵抗を招き、八方美人の家慶にあっさり見捨てられて、彼は失脚してしまいます。
これを見て後を引き継いだ阿部正弘の外交政策が、無策となるのは当然かもしれません。

御三家の問題児、水戸斉昭は、こういう時、ずばずばとはっきりものを言ってくれる点で、阿部正弘にとって相談のしやすい相手でした。
水戸藩の藩政への関与が正式に認められ完全復権した時に、彼の股肱の臣である藤田東湖ら改革派も蟄居を許され、それに伴い、藩内保守派は追放され、政権は再び改革派が握ることになった訳ですが、これにより、幕末史を血で染める水戸家の動乱が始まることになります。
さらに、斉昭は政治的影響力が強くなってきたことから、200年以上に渡ってつんぼ桟敷におかれていた朝廷を再び表舞台に引っぱり出すべく暗躍を始めます。
つまり正弘はこの時、虎を野に放ってしまったのです。

彼をほめる人は、阿部正弘は挙国一致体制をとって国難に当たろうとしたと言います。
しかし、挙国一致体制とは、実力者の様々な意見や提案があるときに、その意見を纏め上げる政治体制を言うのですが、この時にはそういった実力者は全くいなかったのです。

阿部正弘に抜擢された川路聖謨は、同様に勘定吟味役格に起用されていた伊豆韮山代官の江川英竜と共同して急遽調査を実施した上で、防衛計画を答申します。
それによれば、台場の埋め立て及び建設経費の合計は1499万0312両に達するというのです。

普通の常識を持つ人ならば、年間収入をはるかに上回る巨費を必要とする防衛計画を提出されれば、この計画の不可能を悟って、他の方策を模索するでしょうが、阿部正弘は防衛に関する知識、経験に乏しく、防衛計画の規模を大幅に縮小した上で、これを実施することを命じます。
防衛は、役に立つか立たないかの二つに一つで、縮小した計画は役に立たず、単なる金の無駄遣いと言わざるを得ません。
立案者の一人である江川英竜は、縮小計画の実施に反対しましたが、川路聖謨はよき官僚として、おとなしく阿部正弘の命にしたがって台場建設に着手しました。
厳しい財政事情の中で、このような巨費を投じて建設された台場は、何の役にも立つことなく今日に至っています。
このこと自体が幕府の財政をさらに圧迫し、その後の事態に対応するための有効な手を打つことすらできなくなってしまいます。

洋式陸軍設立では、高島秋帆(しゅうはん)という独学の先駆者がいました。
水野忠邦は、天保12年に高島秋帆とその門弟を出府させ、今の板橋区にあった徳丸ヶ原というところで陸軍演習を行わせましたが、大の西洋嫌いの江戸町奉行鳥居耀蔵によって、私費で銃器を購入していたのは謀反の疑いがあるなどと罪をでっち上げられ、投獄され屋敷の没収処分を受けてしまいます。
弘化2(1845)年に彼は釈放され、門弟の一人である江川英竜の屋敷に身を寄せていたのですが、ペリーの来航に対して早速、「嘉永上書」と呼ばれる意見書を幕閣に提出しています。
簡単にいえば開国し、貿易を行うことで、国防費用を賄うべきであるという内容です。
攘夷一色のこの当時にあって、しかもその前に投獄され、財産を奪われるほどの弾圧を受けていながら、このような意見書を再び提出するとは、まことに勇敢な人物だったのでしょうが、この意見が用いられることは決してありませんでした。

阿部正弘の国防政策は、膨大な支出の増加につながる施策の実施を命じたのですから、当然、同時に何らかの大幅な収入増加策の導入を決定しなければならないはずです。
ところが、先のことは何も考えないという阿部正弘は何もしませんでした。
名門の御曹司だけの持つ暢気さというものなのでしょうか。

幕末維新の歴史を綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘を優柔不断あるいは八方美人の人と表現しています。
よく言えば、攘夷論の阿部が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択したのではないかとも言えますが、交渉術に特に秀でていたため、「調整の名人」と異名を持ち、外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる弱気な姿勢は、「瓢箪鯰」と仇名されたといいます。

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング

仏生寺弥助

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
越中射水郡仏生寺村の出身。
江戸へ出て、同郷の斉藤弥九郎に師事する。
練兵館でのスタート時は吉村豊次郎と称し、風呂焚きから身を起こし、神道無念流二代目、岡田十松利貞の薫陶を受けたちどころに腕を上げ、わずか十代で神道無念流皆伝を授かり、練兵館の天才剣士とうたわれたが、無学文盲のために剣術指南として身を立てることはできなかったようである。
大上段から振り下ろす剛剣は、「それ、面を打つぞ」と言われてもよけることができず、さらに彼の前蹴りもすさまじく気絶昏倒する者続出で、当時江戸においては『日本一』といわれた男である。
斎藤弥九郎をして「鉄の草履で日本国中探しても二人とはいないだろう」と言わしめた。
流儀も自ら仏生寺流と称したといわれるが、古い書物には円命流の達人と記されているものもあるという。

その強さを立証するエピソードは多いが、ある日、練兵館に片山伯耆流の宇野金太郎という剣豪が手合わせを願いたいとやってきた。
宇野金太郎といえば、岩国で片山流を修め江戸では男谷精一郎、千葉周作に学び、当時剣鬼と呼ばれた達人だ。
宮本武蔵の逸話のように「箸で飛ぶ蝿をつかむ」ことが出来たといわれ、得意技は小手で、桃井道場の名剣士、抜き胴の上田馬之助を手もなく打ち破り、千葉道場の俊英、海保帆平をもくだし意気揚々と斎藤道場の錬兵館にやってきたのだった。

塾頭の桂小五郎(後の木戸孝允)が相手をし、後ろ面を狙ったところ、振り向きざま神業ともいえるスピードで小手を抜かれ、手の骨が砕けるほどしびれたという。
その後、千葉の小天狗、千葉栄次郎(わずか30歳で夭逝)とも引き分け、突きの鬼歓と恐れられた斎藤歓之助(斎藤弥九郎の弟)が相手をするが、中段から突きへ移行する間際の小手を狙われ一本負け。
歓之助の意向を受けた弥助が郷里へ帰った宇野を追い、岩国の養老館道場で立ち会うことになった。
ここで弥助は「面を打つ」と宣言した上で大上段から得意の面を打ち、2本目も同様の面打ちで宇野は気絶してしまう。
大上段で振りかぶって勝つだけでも実力の差は歴然としているが、攻めるところを公言した上でなお打ち抜けるのは、他に例を見ない早業であった。

錬兵館の同門である桂小五郎や高杉晋作から、長州に来るよう強く誘いを受け、清河八郎献策による浪士隊に応募し、京都において長州藩に新規召抱えになった弥助は、武具並びに馬具が無く、京都松原通りの大丸に三百両の借金を強要、たちまち遊行費に使ってしまった。
以前からの知り合いであり同門の芹沢鴨、そして流派は異なるが、やはり道場も近く顔見知りであった近藤勇ら試衛館の面々と親しく付き合い、その飲食代に使わされてしまったのである。
大丸の訴えを受けた長州藩は三百両を返済し、一人ほろ酔い加減に歩く弥助を、斎藤弥九郎をはじめとする十数人が襲い、五条河原でなぶり殺しにした。
弥助は、相手の中に斎藤弥九郎を見つけ、恩を受けた師匠の息子である2代目に立ち向かうことが憚られたのか、最後まで剣を抜かないまま弥九郎の突きをまともに受けたようである。
また、斎藤弥九郎にしてみれば、長州藩士を多く弟子に抱えていたことから、それと敵対する壬生浪士たちと仲良くする弥助を見過ごすわけには行かなかったのと同時に、父である初代斎藤弥九郎に可愛がられていた弥助に対して嫉妬を感じていたこともあったのだろう。
一説には、まともには討ち取れないので、彼らが誘って酒を飲ませ、泥酔させた上での謀殺だったという話も残っている。
剣にしか生きられなかった幕末一の剣客は、幕末動乱の中、不器用な生涯を終えたのである。享年33歳という。
時に文久3年6月24日(8月8日ともいわれる)のことである。
死骸は松原河原に晒したが、町内の人が棺に入れて金方寺に葬ったという。

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング

山岡鉄舟

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
幕末に生き、大いなる働きをした人物の一人に山岡鉄舟という人がいる。通称は鉄太郎(鐵太郎)。

江戸本所に、小野朝右衛門高福と磯女(塚原卜伝の子孫)の四男(五男だったかもしれない)として生まれる。千葉周作らに剣術を学ぶほか、山岡静山に槍術を学ぶ。22歳のとき静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚して山岡と改姓。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と大柄な体格であった。

三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。禅道の弟子に三遊亭円朝らがいる。木村屋のあんパンを好んでおり、毎日食べていたともいわれる。
安政3(1856)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられたが、その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。

文久3年(1863年)、尊皇攘夷の志を持って浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
京都での、近藤勇や芹沢鴨、清河八郎などとのエピソードも残されているが、腕に自信があった所為か、肝の据わった人物だったらしい。

慶応四年(1868―明治元年)、鉄舟は「精鋭隊」の頭として松岡万・中条金之助らとともに鳥羽伏見の合戦に敗れた徳川慶喜を迎え、浜御殿の海軍局へ案内し警衛に当たった。やがて、幕府の方針は、主戦論を退けて恭順にきまり、勝海舟が終戦責任者の陸軍総裁に就任、慶喜は上野寛永寺の子院、大慈院に謹慎した。
官軍は慶喜の謹慎を認めず、是が非でも徳川家をつぶし、江戸を武力占領しようとしていた。海舟は自分で駿府にある大総督府に赴いて交渉しようとして二、三の重役に相談したが、彼らは恐れをなすばかりで乗ってこなかった。

海舟は高橋泥舟の推薦ではじめて鉄舟に会って話をし、使者としてもっとも有能な男をそこに発見した。誠実と頭脳明晰、死ぬ覚悟もみてとれた。
慶応4年(1868年)、鉄舟は3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。

このとき、西郷が降伏条件として示したのは、一「江戸城を明け渡すこと」・二「城中の人数を向島に移すこと」・三「軍艦を渡すこと」四「兵器を渡すこと」五「徳川慶喜を備前藩へあずけること」の五箇条であった。
鉄舟は条件をもっともだと思った。しかし、鉄舟は慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しなかった。
「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか」といって、西郷の顔を睨んで目を逸さなかった。
とうとう西郷は折れて、この一条を変えるのを承知した。

明治維新後は、徳川家達に従い、静岡県に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、その時期に清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。
明治元年に起きた咸臨丸事件の時、鉄舟はスタートしたばかりの駿府藩幹事役であった。
この頃はちょうど、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中という時期だ。

駿府藩がもたもたして1ヵ月も空費している間に、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺した。無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄され、咸臨丸は翌朝、官軍艦によって品川まで曳航された。
彼らの死体は投棄されたまま海中に浮遊し、誰も手をつける者はいない。「賊軍に加担する者は断罪に処す」という新政府の厳重な布告が出ていたからである。
次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と、有名なセリフを吐いて7人を向島の松の木の根もとに手厚く葬った。
鉄舟は、目を洗われたかと思うほど感動した。次郎長は単なるバクチ打ちの親分、官軍が駿府に駐留している間、市中警護役として御用をつとめた男、いわば二足の鞋(わらじ)をはく目明かしぐらいに思っていたが、その言動からすれば、次郎長の頭の中には、薩長とか徳川、あるいは征服者とか被征服者といった考えはない。あるのは、人間として正しいか、正しくないか、正か、邪かといった物差しだけである。
次郎長と鉄舟の交わりは、この咸臨丸事件から鉄舟の亡くなる明治21年まで続いた。
鉄舟がある時、次郎長に言った。
「お前さん、一度理学の本を読んでみたらよい」
次郎長は早速本屋へ行って「理学」の本を求めたというエピソードが、東海遊侠伝にある。この「理学」というのは、自然科学ではなく、明治初期にはやったベンサムの「利学」のことかと思われる。その方の次郎長の才を、鉄舟は認めていたのかもしれない。
日本の株式会社の祖、渋沢栄一が清水次郎長に紙の原料となるミツマタなどの植林をさせたのはこの頃のことである。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。
侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりなど、剛直なエピソードが知られている。
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐(座禅)のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。

豪傑、英雄が数多くいた幕末の時代でも頭一つ群を抜いていたと思うが、今の世の中、このような人物がどこかにいるだろうか?

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
ブログランキング
特別拡散バナー


奇跡の母子犬
ひまわり/動物達の未来のために
生き物の命の重さに差があるでしょうか?
その重さは計れるでしょうか?

上質なサイトのリンク
お勧めサイトのリンク
ツィッター・タイムライン
最新コメント
最新トラックバック
スポンサードリンク
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。