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A級戦犯、東條英機

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彼については、あまりにも多くの悪評と非難があって、後の世の人々も惑わされがちだが、どの意見が公平で、どの意見が悪意に満ちているかを慎重に検討しなければならない。
彼の悲劇は、よくありがちなことではあるが、世間一般の市民から全く理解されなかったことにある。
人は能力に差がありすぎると、人のことは正しく理解できず、自分の器や思考の範囲に合わせて解釈するのみである。
因みに、A級戦犯のA級とは、犯罪の軽重に順位をつけたものでなく、単純に犯罪行為を内容別に分類してA,B,Cとしただけである。
これはアメリカの分類方法であり、ヨーロッパ諸国ではこの様な分類はしなかった。

日本の戦争行為を正当化するつもりは毛頭ないが、東條英機個人の言動については、甚だしく誤解があるように思う。
東條英機と東條内閣の国務大臣ら木戸幸一内大臣らは、政権を投げ出した近衛文麿首相の後任として、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、天皇を敬愛していた東條を敢えて首相に据えることによって、天皇の下命により日米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。

木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。
ただし木戸は勝田龍夫『重臣たちの昭和史』において、「どうせ戦争になる(そしてやれば負ける)から皇族内閣にすると皇室に累が及ぶ。それで東條にした」と語っている。

当時としては海軍も陸軍も内部には戦争を望む声が多かったが、特に組織だって戦争へ導こうとしたのは海軍の方だった。
それが、戦争が終わるとどういう宣伝をしたものか、海軍は戦争回避の善玉に、陸軍は無謀な戦争を主導した悪玉にされてしまった。

内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進したことに対して、秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判したが、首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。

「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。
戦争初期、1942年8月20日にアメリカ抑留から帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていたことも判明している。

昭和20年(1945年)9月11日、逮捕に際して東條は自らの胸を撃って自殺を図るも失敗している。
銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。

笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていたという。

1946年3月6日マッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内光政海軍大臣をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ。」と語り、米内は「同感です」と答えて東條に天皇を守るためにスケープゴートとなるよう要請し、東条はそれを受け入れたとされている。

そのためか、海軍幹部の及川古志郎、長谷川清、豊田副武、井上成美など米内当人を初め米内に近い海軍幹部は裁判で誰も責任を問われず、東條には指揮権のない海軍の真珠湾奇襲攻撃の責任までを問われることになる。
なお、海軍で唯一戦犯の罪に問われた嶋田繁太郎海軍大臣(終身刑、後に釈放)は、当時海軍の実権を握っていた伏見宮博恭王軍令部総長から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と指示されたため開戦を決意する他なかったと語っている。
田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々は、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていた。

辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。
遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

彼は強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。
「モラルの低下」が戦争指導に及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていた。
飯米応急米の申請に来た係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。

また、区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては自らチェックしたりした。
後日に本人は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」と語った。

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、本来は話せばよくわかる人物であったと述べている。

東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。

東条内閣を批判したため懲罰召集されたとする松前重義に対して、保阪正康は「それを裏付ける正確な資料はない」とし、松前に近かった高松宮宣仁親王のことを昭和天皇は、戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し、戦後、親王が発表した手記に激怒したとされている。

東京裁判に当たって東條は、結局日の目を見ることはなかったが、以下のような反論書を用意していた。
「欧米が人道、人権、自由、平等、法の支配などを唱え、“民族主義”といっていた十九世紀は、アジア人にとって欧米による“アジア隷属化の世紀”ではなかったのか。また欧米が資本主義と世界自由貿易によって文明と繁栄を享受したといっても、その陰には原料産地及び製品市場として植民地もしくは半植民地としての地位を強いられ、愚民政策によって民族意識を抑圧されたアジア、アフリカの十数億の有色人種の隷属があったことを忘れてはならない」と訴え、そしてこの大戦の原因を、「大東亜戦争の根本原因は歴史的矛盾の累積であるが、最たる直接の原因は、世界経済の構造変化によって起こった世界恐慌のなかで、持てる国が経済的国家主義、排他主義による資源封鎖の経済戦略を行ったために、持たざる国が窮地に追い込まれ、資源獲得を実力(武力)でせざるを得なくなったことにある」とし、「東亜は過去数世紀にわたってロシアを含む欧米列強の侵略と、今世紀になってソ連の東亜赤化戦略にあい、安定をはかる必要があった。しかも日本は東亜における唯一の独立国家としてその中心的地位にあり、日本は日本自体と東亜の民族国家全体のため、それら侵略に対して防衛する必要があった。よってきたる原因は外部の圧迫にあり、自ら求めたものではない。世界大戦が勃発するには、それ相当の歴史的に根深い要因があるのであって、戦争責任を一方の指導者にかぶせ、国際法上、外交上の開戦責任を論じても、戦争の本質的原因を究明することはできない。一方の国だけが犯罪として戦争を起こすことはあり得ないし、一方が百パーセント平和的だとする主張も問題である。戦争の本質的原因は謙虚に歴史的に反省し、根深い歴史的矛盾まで掘り下げなければ、正しく把握することができない」との訴えを用意していた。

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明智光秀の心

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戦国時代の武将たちについては、人それぞれの好き嫌いもあるだろうし、小説家によって良くも悪くも書かれている。

明智光秀はどうなんだろう?

彼を主人公にした小説は、見当たらないが。

謎が多い人物だし、伝えられている評判は謀反人としてあまり良くはない。

小説にするなら、書く人の想像力によってどうにでもなりそうな。

このブログにも私見を書いたが、個人的には悪い人間ではないように思う。

少なくとも、個人的な私利私欲や上昇志向で信長を討つような人物には思えないのだが。

頭も人柄もよく、記録などによると、部下や領民のことを大切に考えていた節もある。

職務の達成能力は非常に高かったのだろう。

天覧の馬揃えでも、城攻めなどの戦場でも大きな成果を上げている。

唯一汚点となっているのが本能寺の変だが、この悪名には誰かの作為があったように思う。

死んだ(姿をくらました)者に対しては、生き残ったものは自由に話を作れる。

その話はよく検討しなければならないのでは。

一方的な話は、信憑性に欠けるものだ。

後世の小説家なり、研究家なりのうち、誰か一人くらいは彼のいい面を引き出してくれないものか?



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本能寺の変の真相は?

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明智光秀の家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。
この家系が、本能寺の変を引き起こしたことと強い関係があるように思えてならない。
『信長公記』は光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。

皇室が滅ぼされると思った朝廷から信長討滅の指令があったとする説もあるが、これが事実なら、暗殺後に朝廷がバックにいることを書けばもっと味方が増えたのに、汚名を朝廷に着せない為に、一言も書かなかったことになる。

そこで、一つの仮説を立ててみることにする。
光秀は、天皇若しくは天皇に非常に近いやんごとない公家の落し胤だったとする。
そして皇室から、長く続いた戦乱を鎮め、世に平和と安定をもたらすための工作を委ねられたとする。
もちろん、決して皇室を表立って巻き込まないことを条件に。

多くの学問や趣味、園芸、作法などに通じていたのは、ミッションをこなすために必要な知識や技術だったに違いない。
鹿島香取神宮をはじめとする全国の皇室直轄の神社の神官や、伊賀、甲賀の神域を守る忍者軍団がそうであったと同じように、である。

そして常に皇室と連絡があったと思われるが、皇室の諜報機関のような役割を担っていたとすれば、当然のことであったろう。
諜報部員だったとしたら、有力な武将に就いて朝廷にとって都合のよい世を作るために働きかけ、協力するだろうし、何かあっても朝廷の影を浮かび上がらせることは出来なかっただろう。

朝廷は国内が乱れることを最も嫌うだろうし、武力を持たない朝廷にしてみれば、力のある誰かに国内平定をさせる方法を考えると思う。
そして望まないものが権力を振るい出した時には、その権力を何とか潰そうとするかもしれないが、はるか昔からの慣例でもあるように、我が代わりとなって天下を治めるのは、あくまで力のある源氏や平氏(いずれも皇室の一族)の武将達だった。
それは足利氏でも織田氏でも、誰でも良かったに違いない。
実際にその役割(工作活動)を担ったのが光秀ではなかったろうか?

光秀は信長と対立するようになる義昭を見限って信長に仕えることになるが、これは、将軍義昭には、天下を治める器量が無いと判断したためであろう。
さらに、戦乱の世を鎮めるための近道として信長に近づいたが、比叡山の焼き討ちや皇族への厳しい仕打ちを見るにつけ、信長をも見限ったと見ることは出来ないだろうか?

彼が仕えていたのは、美濃の斉藤氏でも、越前の朝倉氏でも、岐阜の織田氏でもなかった。
皇室だったのである。
とすれば、本能寺の変は、世に言われている謀反ではなかったのではないか?
つまり光秀は、最初から信長の代わりに自分がトップに立とうというつもりはなかったのではないか?
朝廷にとって不都合になり始めた信長を排除すれば、それだけで当面の目標は達成されたのではないか?
ところが、秀吉はそれを知ってか知らずにか、我が天下を取る唯一のチャンスと捉え、戦略として謀反人と宣伝した訳である。

そして、彼は完全に姿をくらましてしまった。
殺されたことにして。

明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりになったと伝承されている。
光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。
領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。
この土地ではどんな工作も可能だ。

ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。
フロイスの信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきという研究家もいる。

光秀と同一人物ではないかと疑われている南光坊天海、智楽院とも呼ばれるが、天海の前半生は不詳である。
小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。
これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳となる。
江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

天海と光秀が同一人物だと享年は116になり、天海を光秀とするのは年齢的にやや無理があるが、それに近い人物である可能性もある。
天海と光秀の書状の筆跡鑑定によると天海と光秀は別人であるが類似した文字が幾つかあり、2人は親子のような近親者と推定できるという。
ここから光秀の従弟とされる明智光春、あるいは娘婿の明智秀満とする説がある。

光秀は、淀の方やその側近達の態度にあきれ果て、最後には徳川に天下(朝廷の庭)平定の仕事を委ねようとしたのではないか?
大阪の陣の家康の傍に天海の姿が見え隠れしている謎も、これなら理解できる。
同一人物ではないにしろ、天海と光秀は協力し合って、徳川の世が平和に続き、二度と戦乱に逆戻りしないように願ったのではないだろうか?
大英帝国の諜報員だったアラビアのロレンスを思い出させる。

天海が江戸で初めて家康と会った時、初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。
大御所が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くしたという。
この時、天海は自分の素性を明かし、本能寺の変の真相の一部を語ったのではないかと思う。
『家康・家光・天海 御影額』…秀忠がいないのに天海がいるというのは、どれほど徳川にとって重要人物かがうかがえる。

家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋で、しかも寅の毛皮の上に座っている。
寅は家康の干支であり、文字通り家康を“尻に敷いて”いる。
日光の華厳の滝が見える平地は「明智平(だいら)」と呼ばれており、名付けたのは天海。
天海の着用した鎧が残っているが、天海は僧兵ではなく学僧だったはずだ。

家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。
斎藤利三は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。
まして家光の母は信長の妹・お市の娘。
水尾天皇の譲位問題では、秀忠の意で上洛、天皇と拝謁するなど、一介の乳母を遥かに超えた働きを見せた。
春日局は天皇に拝謁の際に賜った院号。

光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌と木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」で、 “大師”とは“天皇の先生”の意である。

愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。
「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。
あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。

なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句についても併せて検討する必要があるとの主張もある。
発句に続く脇は威徳院行祐の「水上まさる 庭のまつ山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」である。

まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。
「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。
「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。
したがって、この第2句は、「源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。

「花落つる」は、光秀の身のことを表し、天上から降り立つという意味だろうか?
それとも、わが身を犠牲にして、と解釈するのが正しいのだろうか?
「池の流を せきとめて」は、当然のごとく、信長の暴走を止めるため、ということになるのだろう。


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賢君、真田信之

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真田信幸(信之)と信繁(幸村)は、性格面でよく比較されるが、表立った華々しい活躍は少ないものの、幸村を超えるほどの勇猛かつ智勇の武将であったようだ。
また、源二郎(幸村)、源三郎(信幸)という名前から、幸村の方が先に生まれたのではないかとの説もあるが、正確なところは分かっていない。
昌幸は、穏やかで堅実な信之より、直情的で素直な幸村のほうをより可愛がっていたようなふしがある。

真田家の領地は、越後の上杉、甲斐の武田、相州の北条に挟まれ翻弄され、織田信長に臣従したと思ったら、まもなく本能寺の変が起こるなど、安穏とした生活が送れたときは極めて少なかったに違いない。
二人の息子達も幼い頃から、絶えずいずれかへ人質に出されていた。

過去には、一度ならず領地を狙う徳川に攻め込まれてこれを撃退しているが、関が原の前哨戦では、父と弟が徳川と敵対し、特に秀忠に対しては関ヶ原へ遅参させた(この時秀忠は家康への面会も許されず、面目は丸つぶれとなった)こと、大阪の陣では幸村が家康に痛い目を合わせるなどから幕府に睨まれることが多く、そのために信之は献身的に幕府の公役を務めた。

信幸は西軍に付いた父昌幸との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。
また、自らの戦功・領地そして命までをも投げ出して助命に走る姿が諸将の同情を引き、信之の正室小松の実の父であり、家康に過ぎたるものといわれた本多忠勝もお聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕ると家康に啖呵を切った事から、父と弟は一死を免れ九度山への流罪となった。

戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石となり、上田藩主となることが出来たのは不思議なくらいだが、家康個人との信頼関係がいかに強かったかが想像できる。
しかし秀忠の不興は晴れることが無く、真田家はその後、父祖の地である上田から、河川の氾濫などにより痩せた土地だった信濃国松代へ左遷同様の転封されることとなった。

その後も、大阪の陣の折の裏切りを疑われて追及されるなどの危難も、協力者を得て切り抜けている。
長男の真田信吉やその長男・真田熊之助、次男の真田信政が相次いで死去したため、この時隠居していた信之は、真田家に起きた後継者争い(真田家の取り潰しを狙った幕府や縁戚の大名をも巻き込んだといわれる)を収めるために復帰して藩政を執った。

混乱の戦国末期を徳川への忠誠と父譲りの才気で乗り切り、家中の騒動を収め、その卓越した政治力と生命力で真田の名跡と血を残したのは信之の功績そのものである。
晩年は戦国時代を生で知る最後の生き残りとして幕府内でも一目置かれる存在で、隠居願いもなかなか許されなかった。

温厚な人物だったといわれ、夫婦仲は良く、妻を亡くした際には「我が家から光が消えた」と大変嘆いたという。
真田信之は、良妻・小松の倹約により蓄えていた20万両にも及ぶ蓄財と共に松代入りし、その後三代まで続く財力で松代藩を立て直し、善政を敷き、人を育てて、明治維新まで続く藩の基礎を築くのだった。

真田家には、「吉光のお長持」という逸品が代々伝わっていた。
家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がつく程だったが、江戸幕府が倒れ明治になって開封した際、中から出てきたものは、家康から拝領した吉光の短刀ではなく、石田三成からの書状等の、当時露見していたら確実に徳川家に取り潰されていたであろう証拠書類の数々だった。
危険な証拠書類を焼却せず、不寝番をおいて秘蔵して後世に伝えたこの行為は、苛め抜かれた徳川家に対する反骨精神の表れとみると、真田信之もまた「真田」の血の者であったと言うことだろうか。

信之は思慮深く、武勇に富み、道義を重んじる武人と語り継がれているが、本多忠勝(舅)に兵法とは何かと質問を受けた時、「兵法は家臣を不憫に思うこと、軍法は礼儀を守ること」と答えたことや、家康が関ヶ原の戦いにおいて天下を手中に収め諸大名に謁見したとき、自分を売り込もうと一生懸命な大名の中にあって一言も喋らず、「真田はいずれ話に来るか」と家康が気に掛けたという話や、倹約を奨励して自分も家老の家に滅多に出かけず、行った代わりとして費用分の金を送ったなどと幾つも逸話が残る。
信之は93歳という長寿を全うした。


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蟷螂の斧、武田勝頼

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異母兄で武田家後継者であった義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉され、次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝している事から、勝頼は武田の後継者になった。
しかしそれは一時的なものに過ぎず、正当な世継ぎは勝頼の息子、信勝とし、勝頼は信勝成長までの代行者-陣代-と定めたのである。
信玄の目には、気性の激しさゆえに自分のあとをすぐに継がせるのは危険と映ったのであろうか?

ここにすでに武田家滅亡の芽が密かに出始めていたのである。
武田の家中とすれば、自分達が滅ぼした諏訪氏のしかも神に連なる娘の子である勝頼は、武田に仇なす子供という空気が誕生の時からあったように思われる。
信玄時代「人は石垣、人は城」と団結を誇った武田軍団は大きな亀裂が生じていた。

勝頼は徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵1万5,000を率いて三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する。
しかし、奥平勢が善戦する長篠城は武田軍の猛攻を支え、長篠城攻略に予想外の時間を費やすこととなる。
そして、遂に織田信長・徳川家康の連合軍およそ3万8,000が長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始した。
これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵3,000を残し、主力1万2,000を率いて設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙する。
しかし、もはや野戦ではなく、むしろ攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したというが、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、開戦することとなった。
経験豊かな重臣たちの言葉に耳を貸さなかったのは、焦りと被害意識が綯い混ざった複雑な心境の所為だったのだろうか?

武田軍では、山県昌景・土屋昌次らが戦死し、武田軍は総崩れとなるが、敗走する中で馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟等、有能な将士を次々と失ってしまう。
この敗北で、武田軍は1万人以上もの死傷者を出したといわれている。

東国諸侯は「勝頼はこのたび大欲にふけって、義理の通し方を間違えた」と勝頼をそしったという。
勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。
しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にも却って国人衆の造反を招く結果となった。
信玄の時代にはなかったことである。
なお国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もある。

信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る。
勝頼は外戚の義昌の反逆に激怒し、即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。
その間に織田信忠が伊奈方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻してくる。
これに対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。
武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのである。
唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。

甲斐国の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。
特に真田昌幸は、過去に何度も徳川の大軍を相手に翻弄し退却させているので自信があったであろう。
しかし、勝頼は真田昌幸を信頼しきれず、一門の小山田氏を頼って敗走したが、大月の入り口笹子峠を越えようとしたとき肝心の小山田氏が寝返ったため、峠の手前の天目山中を彷徨することになった。
その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した。
享年37。

これによって、450年の歴史を誇る源氏の名門・甲斐武田氏は滅亡した。
蟷螂の斧を勇ましく振りかざし、偉大な父の影を自分に重ねて、わが猛勇のみを過信して猪突猛進した結末である。


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