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自民党は国民に過去に何をし、今、何をしようとしているか?

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政府が如何に国民の命を虫けらのように扱ってきたか?
そして今度は、その情報を永久に合法的に葬り去ろうとしている。
それでいいのか?

政府にとっては極めて都合の悪い情報。
秘密保護法が成立すれば、これも特定秘密に指定され、公表が制限されるだろう。


原子力時代の死角 核と日本人
原発導入の源流Ⅰ

http://www.47news.jp/hondana/nuclear/article/article003.html
【引用】 
「原子の火」で同盟管理
反米封じで協力本格化

readText.png

東京電力福島第1原発事故を受け、懸命の対日支援を続ける米国。同盟の盟主が被爆国への原子力協力を開始したのは約60年前にさかのぼる。転換点は1954年3月の太平洋ビキニ環礁での水爆実験が引き起こした被ばく事件だった。噴出した反核・反米感情で日本の西側陣営からの離反を恐れた米国は、「原子の火」をともすことで同盟国を管理しようとした。「平和利用」名目で進んだ原子力協力に死角はなかったか。原発導入の源流を追った。

 54年11月12日午後2時半、ワシントンの米原子力委員会。キャンベル委員がストローズ委員長のメッセージを代読した。
 「偉大な物理学者、湯川秀樹博士が中間子論を唱えたのは約20年前。博士ら原子力時代の先駆者が今日の基礎を築いた。この技術情報が、原子を人類の奉仕者とする職務を担う日本の科学者を助けるだろう」
通産相の愛知揆一が聞き入る。米側はこの日、日本に20万ページの原子力関連文献を贈呈。「人類の発展に寄与すべく、巨大な(原子の)力が活用されることを望む」との愛知の謝辞が米公文書に記されている。
 2日前、アイゼンハワー大統領は吉田茂首相と会談し、日米共同声明で被ばくした「第五福竜丸」無線長、久保山愛吉の死亡に遺憾を表明。一方、「原子力の平和利用」が日本と世界に「大きな価値をもたらすと信じる」と強調してみせた。
 久保山らが「死の灰」を浴び、被ばくマグロによる放射能被害を恐れた東京・杉並の主婦らが原水爆禁止の署名活動を始めたのは半年前。3度目の被ばくは米占領下で押さえつけられていたヒロシマ、ナガサキの記憶を呼び起こし、反核感情を一気に燃え広がらせた。


 アイゼンハワーは東京で署名活動が始まった直後、ダレス国務長官に「自分は日本の状況を懸念している」と伝えた。
 米政権中枢は被爆国の反核エネルギーが反米世論に結び付き、保守合同前の日本が共産陣営に擦り寄る左傾化のシナリオを憂慮した。背景には「中国の果たす強力な役割とソ連の水爆保有能力」(5月27日の大統領あて国務省メモ)があった。
 ソ連の水爆保有は53年夏。米国による核の独占体制の崩壊を意味し、アイゼンハワーの「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」構想につながっていく。
 大統領の危機感を解消すべく国務省が考案したのは、54年11月の共同声明にも盛り込まれた遺憾表明、そして日本への原子力協力だった。具体的には、技術情報の提供や日本人科学者の研修受け入れ、研究炉と濃縮ウランの提供が挙げられた。
 54年10月28日の国務省の部内メモは、訪米する愛知にこう問い掛けるようストローズに助言している。「日本の科学者や世論が原子力平和利用への理解を深めるために、何ができるか」
 当時、日本の科学界には、先の大戦への反省から科学技術が軍事利用されることへの根深い警戒心があった。米政府は日本の専門家らに「平和利用」の利点を教育することで、"核アレルギー"を解消しようとした。
 中曽根康弘ら改進党議員の動議で54年春に突如計上された初の原子力関連予算の執行に携わった通産省工業技術院の元担当官、伊原義徳(87)も55年、米アルゴンヌ国立研究所の核関連教育施設に留学した。その後、原子力政策に深く関与した伊原は「アルゴンヌに派遣されたことはありがたかった」とし、研修時代の人脈が役立ったと語る。

揺れた被爆地
54年秋以降、米議会などの間からは「広島に原子炉を」の声が上がり始める。原子力がもたらした未曽有の惨劇の被害者が「平和的恩恵」をまず受ける資格があるとの発想からだった。
 こうした"好意"を被爆地は歓迎した。56年8月、日本原水爆被害者団体協議会は結成宣言にこんな言葉を刻んでいる。
 「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄の方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」
 起草者は、これから約20年後に原発を含めた「核絶対否定」を明確に打ち出した被爆者で反核哲学者の森滝市郎だ。
 娘の春子(72)は市郎の当初の「平和利用」容認を「その時代の表れ」と解説した上で、父と被爆地の心の揺れをこう振り返った。「あまりの悲惨さを体験したからこそ、科学を繁栄に生かしたいとの思いがあった...」
 しかし「3・11」は「平和利用」が制御不能であることを露呈した。春子は被爆地がかつて寄せた原子力への期待は「幻想だった」と言い切った。(共同通信編集委員 太田昌克、一部敬称略、2011年08月01日、肩書きは当時)

 54年10月28日の国務省の部内メモは、訪米する愛知にこう問い掛けるようストローズに助言している。「日本の科学者や世論が原子力平和利用への理解を深めるために、何ができるか」
 当時、日本の科学界には、先の大戦への反省から科学技術が軍事利用されることへの根深い警戒心があった。米政府は日本の専門家らに「平和利用」の利点を教育することで、"核アレルギー"を解消しようとした。
 中曽根康弘ら改進党議員の動議で54年春に突如計上された初の原子力関連予算の執行に携わった通産省工業技術院の元担当官、伊原義徳(87)も55年、米アルゴンヌ国立研究所の核関連教育施設に留学した。その後、原子力政策に深く関与した伊原は「アルゴンヌに派遣されたことはありがたかった」とし、研修時代の人脈が役立ったと語る。


54年秋以降、米議会などの間からは「広島に原子炉を」の声が上がり始める。原子力がもたらした未曽有の惨劇の被害者が「平和的恩恵」をまず受ける資格があるとの発想からだった。
 こうした"好意"を被爆地は歓迎した。56年8月、日本原水爆被害者団体協議会は結成宣言にこんな言葉を刻んでいる。
 「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄の方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」
 起草者は、これから約20年後に原発を含めた「核絶対否定」を明確に打ち出した被爆者で反核哲学者の森滝市郎だ。
 娘の春子(72)は市郎の当初の「平和利用」容認を「その時代の表れ」と解説した上で、父と被爆地の心の揺れをこう振り返った。「あまりの悲惨さを体験したからこそ、科学を繁栄に生かしたいとの思いがあった...」
 しかし「3・11」は「平和利用」が制御不能であることを露呈した。春子は被爆地がかつて寄せた原子力への期待は「幻想だった」と言い切った。(共同通信編集委員 太田昌克、一部敬称略、2011年08月01日、肩書きは当時)

平和のための原子力
 アイゼンハワー米大統領が1953年12月8日の国連総会で提唱した構想(アトムズ・フォー・ピース)。原爆開発に用いられた原子力エネルギーを発電や医学など非軍事・商業利用することを推進、米国は①濃縮ウラン貸与 ②研究炉輸出 ③科学者の研修受け入れ―を進めた。これを受け世界各国が原子力開発に着手。「平和利用」促進で国際原子力機関(IAEA)も57年に創設された。

ビキニ水爆実験
 米国は太平洋ビキニ環礁で1954年3月1日に最大の水爆実験「ブラボー」を強行。爆発力は広島型原爆の約千倍の15メガトンで、放射性降下物「死の灰」が広範囲に降り注いだ。近くで操業中の「第五福竜丸」の乗組員23人が被ばく。他にも多数の日本漁船が被災し、「第五福竜丸展示館」によると、少なくとも856隻から汚染魚が水揚げされた。ソ連が51年に水爆開発に乗り出し、核開発競争が激化していた。

zukai003.jpg

「科学」信頼した被爆地 精神主義への反動と元市長
 「原子からエネルギーを取り出す科学に心奪われた。竹やりで勝つという戦時中の精神主義への反動としての科学主義。科学への信頼と楽観主義があった」。1990年代に広島市長を務めた平岡敬(83)は被爆地と原子力の関係をこう語る。
 広島では56年、自治体や広島アメリカ文化センターなどの共催で「原子力平和利用博覧会」が開かれ、10万人以上が見学。新聞社勤めだった平岡も、放射性物質を扱う「マジックハンド」の展示に魅了されたという。
 「アトムズ・フォー・ピース」を提唱した米国は日本など世界各地で、「平和利用推進」のため博覧会を開催。平岡は「科学の力で再建しなければならないとの論調が当時強かった。核エネルギーの『善用』が『平和利用』。そこに米国の洗脳があった」と振り返る。
 「3・11」後、自己反省する平岡。自身が毎年8月6日に公表してきた平和宣言に「反原発」を盛り込むことがなかったからだ。(敬称略)

過去記事一覧
001 福島原発事故Ⅰ
002 福島原発事故Ⅱ
003 原発導入の源流Ⅰ
004 原発導入の源流Ⅱ
005 原発導入の源流Ⅲ
006 「平和利用」の裏面史Ⅰ
007 「平和利用」の裏面史Ⅱ
008 「平和利用」の裏面史
009 「平和利用」の裏面史Ⅳ
010 沖縄の核Ⅰ
011 沖縄の核Ⅱ
012 被爆地と被曝Ⅰ
013 被爆地と被曝Ⅱ
014 被爆地と被曝Ⅲ
015 被爆地と被曝Ⅳ
016 日米密約再訪Ⅰ
017 日米密約再訪Ⅱ
 
闇の中は、闇の中!?
政府は今も真実を隠している。
「特定秘密法」が可決されれば、この重大な国家犯罪もすべて堂々と闇に葬られるんのだ。


JAL123便 日航機墜落事故の真相




http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
【引用】 
【 ご挨拶 】
このページは http: //www.fims.co.jp/fumitaka/osutaka.pdf ファイル(作成日・変更日 2005/08/11,18:09:11)からできるだけ忠実に引用したものです。
なお、著者の承諾手続きをまだ致しておりませんが、残念ながら、サイトにアクセスできなくなってしまいました。

この墜落事故、あまりに多くのことが隠されています。
衝撃音と振動を伴って何が衝突したのか? 明確に判断できておりません。
そこに至った原因について、操作・取扱などの人為ミスなのか、機材やシステムの欠陥や機能に問題があったのか、はたまたある意図があったのか・・・
いまだ不明です。
そんな中にあっても、明らかとなっている加速度などの数値データや状況証拠をつきあわせれば、
事故調査報告書のような説明にはならないことが理解できます。-->こちら

さらに、墜落後の動きに重大な関心があります。-->こちら

  米軍輸送機C130がJAL123便の異常を察知し、交信を傍受。
  米軍横田基地から直ちに捜索開始命令が発せられ、20分後にそのC130が墜落現場を特定。
  座間から救難へりUH-1も到着し、直ちにロープを下ろし救助を始めようとしたところで、
  そこへ横田から帰還命令が発せられた。そして口外するな、と。

日本側とバトンタッチする際に、米軍から当然に正確な位置情報が伝えられたはずなのに
自衛隊は誤報を繰り返した。

その誤報によって現場に向かっていた救助隊が混乱し、
救助の開始が大きく妨げられたと考えられ、
助かっていた筈の尊い人命が、無残にも多数失われたと推察されます。
米軍が現場から撤収したあと、救助開始までの10時間以上、いったいなにが行われていたのか?
重大な関心をもっています。
管理人 (2013.8.20)

JAL123便 日航機墜落事故の真相 目次
 1.御巣鷹山飛行機事故の真相  .......................1
 2.後部圧力隔壁破損は起こっていない .................2
 3.事故調が隔壁破損に執着する理由 ...................3
 4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説 .............4
 5.謎の飛行物体はSSM-1である ...................6
 6.衝突6分前から気付いていた操縦クルー .............7
 7.東京航空管制はどう受け止めたか ...................8
 8.スコーク77と自衛隊機のスクランブル .............10
 9.なぜ横田基地着陸阻止になったか ...................11
 10.墜落場所は早くからわかっていた  ...............13
 11.自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか  .............14
 12.特殊部隊は墜落現場で何をしたか  ...............15
 13.JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言 ........16 
 14.生存者の一人・落合由美さんの証言  .............18

JAL123便日航機墜落事故の真相は核兵器運搬の証拠隠滅だった!日本は既に核武装国である!自衛隊、米軍、ロシア軍が死闘の末全機撃墜される!想像を絶する軍事衝突の真実とは?
http://www.news-us.jp/article/286164530.html

http://johnbenson.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-3143.html
【引用】 
中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言があります。 
それが真実であるか否かは闇の中。 
その中の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して 
「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」... 
総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件として言い出した。「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」、目撃者が出たらどうしますかに対して「何とかしろ」「殺せという意味ですか」に対して「私をこれ以上人殺しにするつもりか」と怒鳴り 
「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴っていた。 


日本政府が隠しても、やがて50年も過ぎれば、アメリカが秘密ファイルを公開するだろう。
それでもしかし日本政府は否定するかもしれないし、どこまで真実が読み取れるかは分からない。


オスプレイ配備と日航ジャンボ機墜落事件は闇で繋がっている
http://yokodo999.blog104.fc2.com/blog-entry-720.html
【引用】 
 垂直離着陸機オスプレイの配備は、依然として大きな問題となっていますが、最近では、1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故との関連が指摘されています。その論拠は、次の通りです。

 1.墜落した日本航空123便は米ボーイング社製で、ボーイング社はベル社と組んで事故のあった1985年にオスプレイを受注している

 2.機体の名称が "V-22 Osprey"(オスプレイ)と決定されたのが、同じ1985年だった。(米海兵隊向けをMV-22、米空軍向けをCV-22とした)

 3.オスプレイ(Osprey、オスプリー、オスプレィ)は猛禽類のタカの一種である「ミサゴ」のことであり、これが「御巣鷹山(オスタカヤマ)」という言葉に通じる。

 4.オスプレイの飛行訓練ルートに御巣鷹山は含まれていないが、自衛隊の空域でも訓練が行われる予定で、御巣鷹山はそのエリアに含まれている。

 単なる偶然だろうと考える人もいるでしょうが、開発が始まったのが墜落事故と同じ1985年だったという点は些か引っかかります。123便の墜落が米軍の仕業と言われているだけに、尚更です。昨日の「新ベンチャー革命」では、この話題が採り上げられています。

 日本航空123便墜落事故は不可解な事件で、墜落事故現場は米空軍横田管制空域内にあり、自衛隊が救助に向かったのは墜落後14時間も経ってからのことでした。この間に生存者の救出をそっちのけにして、何かを探していたという話もあります。

 この事件を一貫して追い続けた「(新) 日本の黒い霧」といブロクの情報によれば、墜落現場周辺には、自衛隊や米軍、ソ連軍の航空機、戦闘車両、ミサイル等の破片が相当量見つかっているそうです。サイトには、その写真が掲載されています。(http://blog.goo.ne.jp/adoi/)

 御巣鷹山の墜落現場は、戦場のようになっていたわけです。日米ソの間で戦闘が行われていて、日航ジャンボ機はこれに巻き込まれたのでしょうか?

 そして奇怪なことに、事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されており、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていたそうです。(「ウィキペディア」) このため、自衛隊の出動が遅れたとも言われています。中性子爆弾搭載のミサイルによって破壊されたという説も、ここから来ています。

 底知れぬ恐ろしさを秘めた事件で、日本国民の安全など蔑ろにされていることが判ります。福島第一原発事故と通底するものがあり、今のままでは同様な事件が繰り返されることになります。

 日本航空123便が墜落した1985年は、日本経済を狙い撃ちしたプラザ合意が成立した年で、事故後1カ月経った9月22日に発表されています。ニューヨークのプラザホテルで開かれた歴史的な会議ですが、わずか20分で終了したと言われています。会議とは言いながら、事前に話は決まっていたわけです。

 当時の内閣総理大臣は中曽根康弘で、大蔵大臣は竹下登、日銀総裁は澄田智です。錚々たる売国奴で占められており、これを契機に日本経済は坂道を転げ落ちてゆくことになります。この後バブルが起きますが、これは日本を突き落とすための布石でした。

 日本を標的としたプラザ合意を呑ませるために、脅しの材料として123便は撃墜されたとも言われています。また、垂直尾翼が破損した123便は米軍横田基地に不時着しようとしましたが、着陸直前に拒否され、中曽根が自分の地元である群馬県山間部上空で撃墜するよう米軍に依頼したという話もあります。

 これらは日本航空の元エリート社員・佐宗邦皇氏の説ですが、2009年8月9日に59歳で急逝しています。当の日航社員よる追及ですから、影響の大きさを案じた日米の権力者たちが口封じのために殺したのでしょう。

 中曽根は未だ生きていますから、逮捕して真相を究明する必要がありますが、そんな展開は期待できません。中曽根はロッキード事件で田中角栄を生贄にして生き延びており、小泉純一郎を遥かに超える悪党だと言っても過言ではありません。

 日本航空123便墜落事故とオスプレイ配備が繋がっているのなら、必ず国内で大事故を起こします。それが因果というもので、意図的に事故を引き起こす可能性もあります。日本国民にとって厄災になることは間違いありません。


日本航空123便墜落事故]  自殺した航空自衛隊員が所持していた 2枚の写真 (世界の真実の姿を求めて!)
http://www.asyura2.com/10/senkyo92/msg/474.html
【抜粋】 
【「日航123便は自衛隊に撃墜された」と言ううわさがある。この「あり得ない」ようなうわさ、すでに後部圧力隔壁の破損と原因を結論付けられているが、果たして真相はそうなのか? 事故後25年を経過したにもかかわらず、なお因果関係を説明できない事象が絶えないのはなぜか。本稿はその手がかりの一端を提起したものである。】

(以下、本文転載貼り付け)

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-1095.html
2010-08-14
自殺した航空自衛隊員が所持していた2枚の写真
日本航空123便墜落事故が発生して、2日前に25年が経過した。
日本航空123便墜落事故は、1985年8月12日18時56分に、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落した事故。
自衛隊員の自殺数は1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している。
(一省庁のなかで1年間で90人これだけの自殺者が出るのは、不自然であり不審であるが報道すらされなかった。)
最初に不審な自殺者が出たのが1986年7月、二人の航空自衛隊パイロットだった。
そしてつづいて同年9月12日14日と航空自衛隊員が二人自殺する、(これを皮切りに謎の自殺数増加がはじまる)
そのうちの一人(9月12日死亡)が友人に預けていた二枚の写真があるのだが、
一枚は7月に自殺した同僚二人の写真(a)である。

この時の状況だが二人は自殺をはかった直後に発見され、自衛隊病院に運ばれ病院内で死亡ということで、司法解剖も、検視解剖もされなかった。
だがこの写真の異様さに気づくだろうか、身長ほどの高さで吊られているが、踏み台もなにもない、しかもパラシュートコードを使ったというが、このコードは6mmほどで300kg近い耐力があり、首への食い込みは太いロープなどと違い血管も神経も切断する。
それを偶然自殺直後に発見し撮影までした後、病院に搬送するまで生きているとは考えづらくはないだろうか?(4人とも遺書は残していない)
そしてもう一枚の写真(b)が暗い倉庫内(建造物にはモザイクをいれた)の写真。
暗い倉庫でフラッシュ無しで撮影されたよう。
これはなんなのか?
自殺した航空自衛隊員が、なぜこの2枚の写真を何の説明もなく他人に預けたのだろうか?

日航123便の垂直尾翼はその70パーセントが見つかっていない。
写真(b)の右はじ部分まくれあがってるような部分があるがそこにオレンジと黒の色が見えるが、123便に使用されている塗料は白黒赤だけであり、「オレンジ色」は一切使われていないという。
折れ曲がりボロボロだが、これは失われた「70パーセント部分」ではないだろうか!?
自衛隊は二種類の鮮やかな「オレンジ色」のミサイル照準訓練用の小型標的機を所有している。
【写真(A),(B)】 http://blog-imgs-32.fc2.com/o/u/j/oujyujyu/08141.jpg

http://plaza.rakuten.co.jp/topsecretx/diary/200802250000/

【写真(日航マーク)】 http://blog-imgs-32.fc2.com/o/u/j/oujyujyu/08142.jpg

【動画 : 日航ジャンボ123便 JAL123 墜落現場 】
      http://www.youtube.com/watch?v=Yu4WkvI5cL4&NR=1

第4話 自衛隊員の自殺率の嘘
1981年より自衛隊員の自殺数の調査が行われている、そして1982年から自殺数が急激に上がり1986年には年間90人以上と81年から73パーセントも増加している。
だが実は1981年に調査を開始した記録はなく、1986年に急に以前から調査していたかのように自殺数を公表しはじめた、一省庁のなかで年間これだけの自殺者が出るのは、不自然であり不審であるが報道すらされなかった、しかもなぜわざわざ81年から調査しているなどと嘘をつかなければならないのだろうか?
自殺率増加という一見マイナスイメージしか生まない情報操作はなにを意図したものであろうか?
最初に不審な自殺者が出たのが1986年7月、二人の航空自衛隊パイロットだった、そしてつづいて同年9月12日14日と航空自衛隊員が二人自殺する、(これを皮切りに謎の自殺数増加がはじまる)
そのうちの一人(12日死亡)が友人に預けていた二枚の写真があるのだが、
一枚は7月に自殺した同僚二人の写真(a)である。
(ぼかしをいれてある)この写真の二人だが、当時隊内では同性愛者の心中ではと茶化されておわったという、
この時の状況だが二人は自殺をはかった直後に発見され、自衛隊病院に運ばれ病院内で死亡ということで、司法解剖も、検視解剖もされなかった。
だがこの写真の異様さに気づくだろうか、身長ほどの高さで吊られているが、踏み台もなにもない、しかもパラシュートコードを使ったというが、このコードは6mmほどで300kg近い耐力があり、首への食い込みは太いロープなどと違い血管も神経も切断する。
それを偶然自殺直後に発見し撮影までした後、病院に搬送するまで生きているとは考えづらくはないだろうか?(4人とも遺書は残していない)

そしてもう一枚の写真(b)が暗い倉庫内(建造物にはモザイクをいれた)の写真だがこれはなんなのか?なぜこの2枚の写真を何の説明もなく他人に預けたのだろうか?

http://plaza.rakuten.co.jp/topsecretx/diary/200802260000/

前回の写真の正体を追及したい。
下の「資料3」の赤い部分、日航123便の垂直尾翼はその70パーセントが見つかっていない。
「資料1」の写真は暗い倉庫でフラッシュ無しで撮影されたようで、解像度が非常に悪かったのを
最大まで解像度を上げ補色処理をしたものだが、何にみえるだろう?
折れ曲がりボロボロだが、これは失われた「70パーセント部分」ではないだろうか!?
相模湾上空で失い行方不明のはずの垂直尾翼の写真をなぜ自殺した自衛隊員がもっていたのか、もし自衛隊で回収したのであっても隠す必要はどこにもないはずである。
ここで一つのある「うわさ」に行きつく、「日航123便は自衛隊に撃墜された」
と言ううわさである。
ありえない!なんのために自衛隊が民間機を撃墜しなければならないのか、
そんな必要もメリットも何もない。荒唐無稽な話としか思えないだろう。
よく自衛隊は民間機や客船、漁船などを敵にみたて、ぎりぎりまで接近しミサイルのレーダーロックの訓練を頻繁に行っているのは有名な話だが、ここでミサイルを誤射するなどは絶対あり得ない!
別の可能性、自衛隊機と衝突したのであれば飛行中の破損はさらに甚大であるし機長たちも事故前にわかるはずである。
「資料1」の右はじ部分まくれあがってるような部分があるがそこにオレンジと黒の色が見えるが、123便に使用されている塗料は白黒赤だけであり、「オレンジ色」は一切使われていないという。
事故当時のニュース映像で日航側の事故調査員が金属片を回収しようとして証拠隠滅の容疑で自衛官に連行されたが、自衛官がなぜ連行なんかしてるのか関係者の間で疑問だった、その後この映像は一切流れることはなかった。
このとき調査員の回収しようとした金属片も日航機には使用されていないはずの「オレンジ色」の破片だった…
ここで一番下の写真を見ていただきたい、自衛隊の採用している二種類の鮮やかな「オレンジ色」のミサイル照準訓練用の小型標的機である…




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