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山岡鉄舟

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幕末に生き、大いなる働きをした人物の一人に山岡鉄舟という人がいる。通称は鉄太郎(鐵太郎)。

江戸本所に、小野朝右衛門高福と磯女(塚原卜伝の子孫)の四男(五男だったかもしれない)として生まれる。千葉周作らに剣術を学ぶほか、山岡静山に槍術を学ぶ。22歳のとき静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚して山岡と改姓。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と大柄な体格であった。

三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。禅道の弟子に三遊亭円朝らがいる。木村屋のあんパンを好んでおり、毎日食べていたともいわれる。
安政3(1856)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられたが、その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。

文久3年(1863年)、尊皇攘夷の志を持って浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
京都での、近藤勇や芹沢鴨、清河八郎などとのエピソードも残されているが、腕に自信があった所為か、肝の据わった人物だったらしい。

慶応四年(1868―明治元年)、鉄舟は「精鋭隊」の頭として松岡万・中条金之助らとともに鳥羽伏見の合戦に敗れた徳川慶喜を迎え、浜御殿の海軍局へ案内し警衛に当たった。やがて、幕府の方針は、主戦論を退けて恭順にきまり、勝海舟が終戦責任者の陸軍総裁に就任、慶喜は上野寛永寺の子院、大慈院に謹慎した。
官軍は慶喜の謹慎を認めず、是が非でも徳川家をつぶし、江戸を武力占領しようとしていた。海舟は自分で駿府にある大総督府に赴いて交渉しようとして二、三の重役に相談したが、彼らは恐れをなすばかりで乗ってこなかった。

海舟は高橋泥舟の推薦ではじめて鉄舟に会って話をし、使者としてもっとも有能な男をそこに発見した。誠実と頭脳明晰、死ぬ覚悟もみてとれた。
慶応4年(1868年)、鉄舟は3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。

このとき、西郷が降伏条件として示したのは、一「江戸城を明け渡すこと」・二「城中の人数を向島に移すこと」・三「軍艦を渡すこと」四「兵器を渡すこと」五「徳川慶喜を備前藩へあずけること」の五箇条であった。
鉄舟は条件をもっともだと思った。しかし、鉄舟は慶喜を備前藩へあずけるの一条は承服しなかった。
「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか」といって、西郷の顔を睨んで目を逸さなかった。
とうとう西郷は折れて、この一条を変えるのを承知した。

明治維新後は、徳川家達に従い、静岡県に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、その時期に清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。
明治元年に起きた咸臨丸事件の時、鉄舟はスタートしたばかりの駿府藩幹事役であった。
この頃はちょうど、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中という時期だ。

駿府藩がもたもたして1ヵ月も空費している間に、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃の上、艦に残っていた副艦長春山弁蔵ら7人を斬殺した。無抵抗のまま斬殺された7人の死体は、海中に投棄され、咸臨丸は翌朝、官軍艦によって品川まで曳航された。
彼らの死体は投棄されたまま海中に浮遊し、誰も手をつける者はいない。「賊軍に加担する者は断罪に処す」という新政府の厳重な布告が出ていたからである。
次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と、有名なセリフを吐いて7人を向島の松の木の根もとに手厚く葬った。
鉄舟は、目を洗われたかと思うほど感動した。次郎長は単なるバクチ打ちの親分、官軍が駿府に駐留している間、市中警護役として御用をつとめた男、いわば二足の鞋(わらじ)をはく目明かしぐらいに思っていたが、その言動からすれば、次郎長の頭の中には、薩長とか徳川、あるいは征服者とか被征服者といった考えはない。あるのは、人間として正しいか、正しくないか、正か、邪かといった物差しだけである。
次郎長と鉄舟の交わりは、この咸臨丸事件から鉄舟の亡くなる明治21年まで続いた。
鉄舟がある時、次郎長に言った。
「お前さん、一度理学の本を読んでみたらよい」
次郎長は早速本屋へ行って「理学」の本を求めたというエピソードが、東海遊侠伝にある。この「理学」というのは、自然科学ではなく、明治初期にはやったベンサムの「利学」のことかと思われる。その方の次郎長の才を、鉄舟は認めていたのかもしれない。
日本の株式会社の祖、渋沢栄一が清水次郎長に紙の原料となるミツマタなどの植林をさせたのはこの頃のことである。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。
侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりなど、剛直なエピソードが知られている。
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐(座禅)のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。

豪傑、英雄が数多くいた幕末の時代でも頭一つ群を抜いていたと思うが、今の世の中、このような人物がどこかにいるだろうか?

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