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首吊りの足を引っ張った人たち

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阿部正弘という人は、人によって大きく評価が分かれる人で、そういう意味では日本人には非常に多いタイプです。

天保14年(1843)閏9月11日、田沼意次、水野忠邦の失脚の後を受けて老中に任命されました。
この年、オランダ国王がを送って来た親書には、イギリスと中国の間のアヘン戦争のことや、アメリカ、ロシヤなどの諸国が極東を狙い始めたこと、日本の造船、軍事産業の遅れなどが書かれ、これ以上鎖国を続けることは危険であると書かれ、今までの長年の付き合いのお礼として、国際慣行その他について色々と教えてあげたいという親切なものでした。
オランダとしては、このまま日本が鎖国を続けている方が莫大な貿易利権を独占できるので好都合なのですが、永年の厚誼を考え、自らの利益を捨てて日本のために開国を勧めてきたものです。

しかしせっかく、予備知識を得た上で国際社会に出て行くチャンスを貰ったにもかかわらず、なぜか、阿部正弘はそれを無視してしまいました。

その後まもなく日本を訪れた国はアメリカで、当時のアメリカは太平洋で盛んに捕鯨をしており、そのための食糧や水などの補給基地として、どうしても日本と友好関係を持ちたかったのと、世界の先進諸国が新たな植民地を開拓しようとアジア諸国に目を向け始めている状況から、1852年、東印度艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦(内2隻が蒸気船:黒船)を従えて、開港要求の強固な意志を伝えにやってきました。
その結果抵抗むなしく、砲撃などの威嚇に屈して、下田と函館を開港する線で妥協が成立し、日米和親条約が締結されました。

その後も外国人嫌いの阿部正弘は、ハリスと直接交渉する役を、単なる出先機関にすぎない下田奉行に押しつけ、ハリスに対してもその奉行と相談するようにと書簡を出しました。
その結果、二人の下田奉行とハリスの間で、調印されたのが、いわゆる下田条約です。
これは当初の和親条約よりさらに踏み込んだ通商条約となるものでした。

安政4(1857)年6月4日にこの条約は公布されますが、世論は、その内容の問題性よりも、攘夷思想的観点から一斉に非難を浴びせることになります。
阿部正弘はこの交渉のさなか、安政4年6月17日、39歳の若さで急死してしまい、この後の政局運営は取り敢えず佐倉藩主・堀田正睦が引き継ぎますが、朝廷との交渉に失敗して失脚、次いで彦根藩主・井伊直弼が登場するのですが、桜田門外の変で暗殺され、幕府は自ら崩壊していくことになります。

当時の将軍だった家慶は老中水野忠邦に父の佞臣達の首を切らせ、天保の改革を開始させる程度の意欲はあったのですが、御三家等から改革に対する抵抗が強まると、庇うどころか、たちまち忠邦を罷免してしまうという、まことに暗愚な将軍でした。
また、当時活躍した福地源一郎の書によれば、「人気に障らぬように注意せよ、物議を惹起してはあいならぬぞ」というのが口癖だったというのですから、典型的な八方美人型の性格だったようです。
保守派並びに世間に不評だった田沼意次を死ぬまで庇い抜いて、改革を実施させた10代将軍家治との器量の差は歴然たるものがあるといえます。

阿部正弘は、名門の御曹司であるにもかかわらず、多くの下級幕臣やさらには土佐の漁民にすぎないジョン万次郎を起用し、出自に対する偏見のなさを示しましたが、彼の不運は、伝統的な名君ではとうてい対応できない新しい時代に、沈みゆく幕府の舵取りを担わなければならない点にありました。
官僚は、従来から決まっている方針をそのまま遵守すべき場合には、仕事を安心して任せておけます。
しかし、新しい事態に即応して新しい方針を立てる場合には、政治家自らが決断を下し、導いていかねばなりませんが、若く経験も浅い名門の貴公子には正しい舵取りをする力はありませんでした。

彼の前の老中である水野忠邦は、外国情報収集の必要を痛感し、それまでオランダ政府から得ていた定例報告の和蘭風説書に加えて、別段風説書の提出を特に求めて、正確な海外情勢の把握に務めました。
水野忠邦が、家斉の発していた異国船打払令を廃止して、薪水給与令を発したのは、そうした情報に基づいて下した理性的な判断によるものでした。
印旛沼を通過する運河を、田沼意次は、経済の振興のために計画したことはよく知られていることですが、水野忠邦の場合、江戸防衛計画の一環として印旛沼運河を計画しました。
もし外国が浦賀水道を封鎖すれば、たちまち首都は日常生活に困ってしまう状況にあったわけです。
そこで内陸に運河を建設するとともに、浦賀近辺を守るために、砲台も新たに相当数建設しています。
その忠邦の江戸・京阪神防衛政策の要として、江戸及び大阪周辺の土地をすべて幕府の直轄地にしようと計画しましたが、このため御三家を始めとする、財政難に苦しむ諸藩の強い抵抗を招き、八方美人の家慶にあっさり見捨てられて、彼は失脚してしまいます。
これを見て後を引き継いだ阿部正弘の外交政策が、無策となるのは当然かもしれません。

御三家の問題児、水戸斉昭は、こういう時、ずばずばとはっきりものを言ってくれる点で、阿部正弘にとって相談のしやすい相手でした。
水戸藩の藩政への関与が正式に認められ完全復権した時に、彼の股肱の臣である藤田東湖ら改革派も蟄居を許され、それに伴い、藩内保守派は追放され、政権は再び改革派が握ることになった訳ですが、これにより、幕末史を血で染める水戸家の動乱が始まることになります。
さらに、斉昭は政治的影響力が強くなってきたことから、200年以上に渡ってつんぼ桟敷におかれていた朝廷を再び表舞台に引っぱり出すべく暗躍を始めます。
つまり正弘はこの時、虎を野に放ってしまったのです。

彼をほめる人は、阿部正弘は挙国一致体制をとって国難に当たろうとしたと言います。
しかし、挙国一致体制とは、実力者の様々な意見や提案があるときに、その意見を纏め上げる政治体制を言うのですが、この時にはそういった実力者は全くいなかったのです。

阿部正弘に抜擢された川路聖謨は、同様に勘定吟味役格に起用されていた伊豆韮山代官の江川英竜と共同して急遽調査を実施した上で、防衛計画を答申します。
それによれば、台場の埋め立て及び建設経費の合計は1499万0312両に達するというのです。

普通の常識を持つ人ならば、年間収入をはるかに上回る巨費を必要とする防衛計画を提出されれば、この計画の不可能を悟って、他の方策を模索するでしょうが、阿部正弘は防衛に関する知識、経験に乏しく、防衛計画の規模を大幅に縮小した上で、これを実施することを命じます。
防衛は、役に立つか立たないかの二つに一つで、縮小した計画は役に立たず、単なる金の無駄遣いと言わざるを得ません。
立案者の一人である江川英竜は、縮小計画の実施に反対しましたが、川路聖謨はよき官僚として、おとなしく阿部正弘の命にしたがって台場建設に着手しました。
厳しい財政事情の中で、このような巨費を投じて建設された台場は、何の役にも立つことなく今日に至っています。
このこと自体が幕府の財政をさらに圧迫し、その後の事態に対応するための有効な手を打つことすらできなくなってしまいます。

洋式陸軍設立では、高島秋帆(しゅうはん)という独学の先駆者がいました。
水野忠邦は、天保12年に高島秋帆とその門弟を出府させ、今の板橋区にあった徳丸ヶ原というところで陸軍演習を行わせましたが、大の西洋嫌いの江戸町奉行鳥居耀蔵によって、私費で銃器を購入していたのは謀反の疑いがあるなどと罪をでっち上げられ、投獄され屋敷の没収処分を受けてしまいます。
弘化2(1845)年に彼は釈放され、門弟の一人である江川英竜の屋敷に身を寄せていたのですが、ペリーの来航に対して早速、「嘉永上書」と呼ばれる意見書を幕閣に提出しています。
簡単にいえば開国し、貿易を行うことで、国防費用を賄うべきであるという内容です。
攘夷一色のこの当時にあって、しかもその前に投獄され、財産を奪われるほどの弾圧を受けていながら、このような意見書を再び提出するとは、まことに勇敢な人物だったのでしょうが、この意見が用いられることは決してありませんでした。

阿部正弘の国防政策は、膨大な支出の増加につながる施策の実施を命じたのですから、当然、同時に何らかの大幅な収入増加策の導入を決定しなければならないはずです。
ところが、先のことは何も考えないという阿部正弘は何もしませんでした。
名門の御曹司だけの持つ暢気さというものなのでしょうか。

幕末維新の歴史を綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘を優柔不断あるいは八方美人の人と表現しています。
よく言えば、攘夷論の阿部が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択したのではないかとも言えますが、交渉術に特に秀でていたため、「調整の名人」と異名を持ち、外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる弱気な姿勢は、「瓢箪鯰」と仇名されたといいます。

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