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人斬り半次郎

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中村半次郎、後に桐野利秋(元々の姓)と名乗る。
薩摩国・鹿児島郡吉野村に生まれる。

薩摩の最下級武士(城下士)で、若くして父が徳之島に流罪になり家禄を召し上げられた上、18歳で兄を亡くして家を継いだために非常に貧しい暮らしだった。
近所の立ち木を相手に木刀を振るい、何本もの木を折ったというほどの努力家で、ほとんど独学ながら示現流の達人の域に達していたようだ。
逸話として、雨粒が軒から地面に落ちるまでの間に、三度抜刀して鞘に収めたという話も伝わっている。
二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、「そんな些細なことで喧嘩するのは男としてつまらん」と言って、決闘を避け、以後は親交を結んだほどで、後に人斬り半次郎と言われるような凄惨な人物ではなかったようだ。
ただし、京都では、近藤勇をして、「中村半次郎だけは相手にするな」と言わせるほど周囲からは恐れられていたようで、友人の一人は、「半次郎は、切るといった相手は必ず切った」とも言っている。

長州寄りの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいことがうかがえるが、結局、長州は暴発し禁門の変となった。積極的に戦っていたという話と、極力戦闘を避けて長州人を助けたというような話と、後世、正反対の証言が残っている。
人と議論することが好きだったようで、熱中すると徹夜もいとわなかったとも言う。
またその議論は、正論、理想論だったとも言われ、熱い心の持ち主だったことが窺われる。

薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允、品川弥二郎などと交際を重ね、ある日京都見回り中に、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺したが、短銃に手をかけた赤松の発砲より速く、一刀のもとに切り下げた。
また、坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡等に奔走した。
静岡で西郷と山岡鉄舟の会談を護衛し、次いで江戸にのぼり、西郷と勝海舟との会談を護衛し、上野の彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門口攻撃に参戦した。
この戦いののち、湯屋からの帰りに一刀流の剣客鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失ったことは、後に本人が書き残している。
会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務め、儀式に臨んで「涙を止めることができなかった」と語っており、作法に則り、温情を持った処理で、松平容保から感謝の刀を送られたとある。
評判とは裏腹にこの大役を見事に果たせた理由を聞かれて、「寄席で赤穂浪士の講義を聞いて、城受け取りのやり方を覚えた」と謙遜しているのは、なんともほほえましくおかしい。
その後、北海道に視察に行き、札幌に鎮台を設置することを上申したことが、のちに屯田兵派遣のきっかけを作った。
明治6年、征韓論争に敗れた西郷隆盛が下野するや、真っ先に辞表を提出して帰郷した。
鹿児島では、原野を開墾して日を過ごしていたが、私学校生の暴走を知ると「早まったことを、、、。」と舌打ちしながらも、引き戻すこともならずこの戦に先頭を切って参加した。
最後は、西郷も白刃を引き抜いて駆け回るほどの白兵戦となったが、西郷が被弾し、別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、額を打ち抜かれて戦死した。享年40歳。

西郷隆盛は彼を評して「もし彼にもう少し深い学問(主に漢文)があれば、自分などはるかに及ばないだろう」と言っている。
『丁丑擾乱記』には、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」とある。また同書には、「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。
後年、大隈重信は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)と評している。
陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。

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