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加藤清正

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永禄5年(1562)、尾張中村生まれ。加藤清忠の子。幼名、虎之助。
清正の母は、「虎の友達は財産(宝)だ」と言って、彼の周りに集まる子供たちもわが子のように惜しみなく慈しんでいたと言う。
子供のころからの竹馬の友として森本儀太夫と飯田覚兵衛がいて、ある日、剣の試合をして勝ったものが主君になり、負けたものが家来になるという約束をした。
清正が勝ち、その約束は守られ、二人は清正の両腕として信頼される主従関係を結び続けた。

若い頃は、福島正則(市松)、片桐且元(助佐)と並び扱われ、特に秀吉の正室ねね(高台院)は、乱暴者だった虎之助や市松より、目端が聞き気配りの出来る助佐を可愛がっていたようだが、年経るにつれ加藤清正が頭角を現し、壮年期には頭一つも二つもぬきんでるようになった。
特に片桐且元は、機転のよさが弱気につながり、他の二人に大きく水を開けられてしまい、晩年には家康と淀君の間に立って、苦しい思いをするばかりだった。

関が原前、五大老の中でも最実力者だった徳川家康が、「新たな戦の火種を消す」と言う正当な理由をもって東下するのに従ったのは、当時の状況としては当然であったろうし、それに対し、小賢しく密かに上杉景勝と謀り、他の諸将と事前に相談することも無く、また豊臣秀頼を正面に担ぎ出すこともなく東軍を挟み討とうとしたのは、いかにも狭量な作戦で個人的な恨みに見えたために、これに賛同しなかった加藤清正や福島正則他の諸将たちの行動は、必ずしも「三成憎し」のみではなかったろうと思う。

清正は、家康を支持する一方で終生豊臣家への忠誠を忘れることなく、家康が江戸幕府をひらくと、これに臣従しつつ豊臣と徳川の関係調整に奔走し、二条城での家康と秀頼の会見を実現させるなど、秀頼との関係を断たずに尽くした。
後に徳川家から追及された時に、清正は「新恩のために旧恩を忘れることはならず」と堂々と答えたと言われている。
また、熊本、大阪、江戸を行き来する際、故郷の尾張中村を通るたびに、大人にも子供にもいちいち声をかけ、新しい桶にいっぱいの餅を入れて配ったといい、そのおかげでこの地方の人たちは、当時の生活必需品であった桶を何年も新調する必要がなかったという。

肥後における清正の治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮し、徳川家の大名への消耗作戦とも言えるたび重なる城普請要求にも平然とこたえたばかりか、実戦的で壮大な熊本城も作り上げてしまい、その底の見えない財力に、さすがの家康も驚き恐怖を感じたという。
熊本城築城については、家康も許可を与えていたと言われるが、当時は、豊臣家が大人しく臣下の礼をとるなら、熊本に移そうかと言う考えがあったのかもしれないし、清正は清正で、いざとなったら秀頼を熊本城に迎え入れて家康と一戦交えるのも辞さない考えだったのかもしれない。

一説には、二条城での会見により家康の秀頼に対する警戒心が強まり、豊臣家倒滅へ動き出し、難癖をつけて大阪冬、夏の陣へと持ち込んだと言われている。
そのこともあって、清正が、京都からの帰国途中の船内で急に発病し、ついに熊本で死去した(享年50)のも、その後、豊臣家恩顧の大名が相次いで急死したのも、家康の指示により毒殺されたのではないかと言う説が流れた。
その真偽はともかくとして、家康が一目も二目も置かざるを得なかった武将達がいなくなったのは、家康にとっては幸いであったのは確かだろう。

因みに、「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人は清正で、「隅本」よりも「熊本」の方が勇ましかろうと言う理由だったと伝えられている。
朝鮮の役ではトラ退治を始めとして逸話も多いが、セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」であることは知る人は少ないかもしれない。

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