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良くも悪くも理解されなかった人-乃木希典

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東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
しかしいわゆる「殉死」の評価についても諸説あるように、司馬遼太郎など「愚将」とする考え方もあるが、これに対する名将論・反論・擁護論も数多くある。
若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健なプロイセン軍人に影響を受け、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。
元帥の称号を賜る話はあったが、乃木本人が固辞した。
現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地。
幼少期に母である寿子に躾として火箸で叩かれたことが元で左目がほぼ失明状態となる。

西南戦争では、初戦時、退却の際に軍旗を持たせた兵が討たれ、軍旗が薩摩軍に奪われた。
乃木は激しく自分を責め、まるで戦死を望むかのような蛮戦をくりかえす。
負傷して野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとした。

乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に待罪書を送り、厳しい処分を求めた。
しかし、軍旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた乃木の行動はかえって潔いと好意的に受け止められ、罪は不問とされた。

後に乃木が殉死した際、遺書とともにこのときの待罪書が見つかった。
大将にまで上り詰めた乃木が、若き日の軍旗喪失の責任を忘れていなかったことと、その時果たせなかった切腹による引責を殉死によって遂げたことが明らかになり、その壮烈な責任感は、日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた。

台湾総督時代には抵抗運動鎮圧に苦労し、後の児玉源太郎や明石元二郎のような積極的な内政整備は出来なかった。
そのため、本人も総督としての職務失敗を理由に辞職してしまった。
ただし、蔡焜燦は、あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になったことは支配側の綱紀粛正や現地人の信頼獲得に大いに役立ち、児玉時代以降の発展の基礎を築いたと高く評価している。

日露戦争では、旅順要塞攻略のために新たに編成された第三軍の司令官に任命される。第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ多くの犠牲者を出した。
乃木はこの失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどして犠牲者を激減させた。
この一連の戦闘で長男勝典、次男保典が戦死。

日露戦争時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれる。
当時は名将論が一般的であったが、一部に乃木無能論もあった。
これが広まったのは1960年代末から書かれた司馬遼太郎の『坂の上の雲』によるところが大きい。
その刊行後、すぐに乃木擁護論が反論されるなど、大きな反響をもたらした。
夏目漱石は作品『こゝろ』の登場人物に、「生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいのだろうと考えました」と語らせ、森鴎外は、『興津弥五右衛門の遺書』の中で乃木の武士道を讃える。
一方で、殉死を冷ややかな目で見ていた志賀直哉などは、「馬鹿な奴だ」と日記に記した。

少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。
その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金二円を渡した。
少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話がある。

戦後の乃木は、旅順や奉天で戦死・戦傷した部下や遺族の窮状を聞くと、密かに訪れて見舞金を渡したり、従者を送ったりした。
また、上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。
この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木あてに届き、乃木が感涙にむせんだという。

日露戦争時において乃木は子息を無くし、帰還して明治天皇に復命の際、「旅順の攻撃には半年の長日月を要し多大の犠牲を供し・・・・・」、自分の作戦の失敗から多くの国民の命を落としたことの責任を痛感され、死をもって国民の前に謝罪したいと述べた。
しかし、明治天皇は「今は死すべきときでない」と慰撫し、悲痛の乃木希典に、その心で昭和天皇の教育を頼むということで、学習院院長にと発議し任命されました。
その際「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と言われた通り、明治天皇崩御後、夫人を伴って葬儀に参列し、天皇に最後のお別れをした後、赤坂の自宅にもどり、二階八帖の間に於いて夫人とともに殉死した。
殉死の前日、乃木は親王に自ら写本した山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。
当時弱冠10歳の親王は、乃木のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。
昭和天皇は晩年まで、生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けた。

乃木は幼名を無人と云い、幼時には3歳下の妹にさえ度々泣かされたというほど気弱温順な性格であり、一方では兄弟思いで妹達のお守りをしたりその髪を結ってやったり、又器用に針を使って縫物をするという、男らしさよりも女らしさを多分に持った少年だった。

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