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消された名君、上杉鷹山

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ある時期、なぜか上杉鷹山は、小学校の教科書からも歴史からも抹消されてしまった。
その理由はよく分からないが、興味のある人は考えてみてはどうかと思う。
日本人記者の質問に対して、ケネディ大統領が、日本の政治家で最も尊敬する人と答えたという。

上杉治憲・鷹山(ようざん)は、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美の次男として生まれた。
17歳の時に、遠い親戚関係に当る上杉家の養子となり、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功した。

新藩主に就任した治憲は民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、自らこれまでの藩主では1500両であった江戸での生活費を209両余りに減額し奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って、土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。

天明の大飢饉の最中で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。
また曾祖父・綱憲が創設し後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

米沢の名産である笹野彫の「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴という。
将来結婚することを条件に養子となった藩主の妹幸姫は、脳性マヒのために心身ともに発育が遅れており、30歳までの短い命だった。
しかしながら治憲は彼女をいつくしみ続け、鷹山が幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをして侍女たちの涙を誘った。
江戸と米沢に遠く離れていた重定は、幸姫の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという。

鷹山の側室は、国元の米沢に置いたお豊の方ただ一人であった。
鷹山より10歳年上であったが、お豊の方は教養も高く、鷹山をよく理解した賢婦人で、鷹山との間もうまくいき、鷹山を支えつづけて81歳まで生きた。

藩主になった直後の鷹山の決意を、二つの誓詞が物語っている。
一つは自分自身を律したもので、文学・武術を怠らぬこと、民の父母である心構えを第一にすること、質素倹約を忘れぬこと、言行がととのわなかったり賞罰に不正があったりしないようにすること等を神前に誓ったものである。
もう一つは「連年国家が衰微し人々が困窮しているが、大倹によって必ず中興したい、その決意を怠るようなことがあれば神罰を蒙ってもよい」という意の誓文である。

鷹山は藩財政の困窮を救うため大倹執行の命令を発する。
短期間に大幅な収入増が見込めぬ以上、できるだけ出費を切りつめなければならないからであった。
低禄の家臣や領民の貧困をよそに、永年特権の上にあぐらをかいてきた藩重役や多くの家臣たちは、当然若き新藩主の方針に不満たらたらであったが、鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行した。

さらに、新田の開発、河川の改修、橋の掛け替え、籾倉の建設など家中あげての労役奉仕による大規模な開発事業が行われた。
武士たちが農民と共に賊役とされた労働に従事するなど、これまでは考えられないことであった。
鷹山はまた、郷村をよく巡覧し、農業生産の実を上げた代表者に褒賞を与えた。
そして、代官の世襲を廃止し、優秀な人材を代官に登用したのである。
また、鷹山は産業開発にも力を入れた。
竹俣当綱によって発表された漆、桑、楮(こうぞ)各百万本の植樹計画は、財源の回復と山間部の農村復興を目指したものでした。
縮み織りの染料となる藍の栽培をはじめたのも安永年間のことである。

天明5年(1785年)鷹山は35歳の若さで隠退し、跡を重定の世子治広に引き継いだ。
隠退にあたって鷹山が治広に与えた有名な「伝国之辞」は、鷹山の政治理念を象徴する名言として知られている。

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。 
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。
一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候。

隠居した鷹山は城内三の丸に餐霞館(さんかかん)と名づけた隠殿を建て、そこで暮らしたが、まったく隠退してしまったわけではなく、10代藩主治広をバックアップし、さらに11代斉定をも後見して、米沢藩の経営を実質リードし続けるのである。

役人に対しても鷹山は、その心構えについての文章を与え、彼らを懇々と教え論した。
その文章を要約すると、「役人は母の赤子に対する心をもって民にのぞめ。この真心、誠のあるところ愛を生じ、愛は知を生ずる」ということである。
鷹山の心にあるもの、それはひたすら民を思い、民を愛する至情であった。
郷村教導出役として鷹山の抜擢をうけた十二人はいずれも衆にすぐれた人物で、彼らはよく鷹山の意を体し競い合って職務に精励した。

鷹山の愛民の政治は以上にとどまらず、次々と多方面に展開された。その一つが「五什組合」の制度である。
これは農民相互の扶助組織であり、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにするものであった。鷹山は「五什組合」について次のように定めた。
1.五人組は常にむつまじく交りて苦楽をともにすること、家族の如くなるべし。
1.十人組は時々親しく出入りして家事を聞くこと、親類の如くなるべし。
1.一村は互いに助け合い、互いに救い合いたのもしきこと、朋友の如くなるべし。
1.組合村は患難にあって助け、隣村よしみ甲斐あるべし。
そして、老いて子なき者、幼にして父母なき者、夫婦のいずれかを失った者、病傷者で生活できない者、死者を出しても葬式を出せない貧しい者、火災にあった者等々、全ての苦しむ者に対し、五人組、十人組、一村が相互扶助することを定めたのであった。

それ故に内村鑑三『代表的日本人』の中でこの五什組合のことを「多分の官僚主義は以上のどこにも存しない。それのみならず我々はかつて鷹山の米沢領以外、地球の他のいかなる部分に於ても、これに類したものの公布され、それの実行に移されたるを見たことなしと言明する」と述べているのである。

藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。
鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、
・ 自ら助ける、すなわち「自助」
・ 近隣社会が互いに助け合う、「互助」
・ 藩政府が手を伸ばす、「扶助」

やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。
家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。
米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。
この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。
もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。
橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。
やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。
そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」と言って、橋を歩いて渡った。
鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。

藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。
鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。
・藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
・比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ
鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。
それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。
それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去。
享年72(満70歳没)。
このとき時、藩内あげてその父母を失うがごとく、その悲嘆は言語に絶した。
埋葬の当日、数万の人々があるいは老人を伴い、あるいは幼児をたずさえ、沿道に平伏してひつぎを拝み、欷歔(ききょ:すすり泣く)嗚咽、号泣の声は山野に満ちた。

引退の時の言葉とされる、有名な「生せば生る 成さねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた。
鷹山の半世紀にわたる粒々辛苦の尽力は遂に米沢藩を変貌せしめ、この地上の歴史の中に最も価値ある理想の国をつくり上げることに成功したのである。
政治と政治家にとって最も大事なことを、五十有余年の不撓不屈の実践によって指し示した上杉鷹山は、わが国の生んだ古今不世出の哲人政治家だったのではないかと思う。


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