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A級戦犯、東條英機

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彼については、あまりにも多くの悪評と非難があって、後の世の人々も惑わされがちだが、どの意見が公平で、どの意見が悪意に満ちているかを慎重に検討しなければならない。
彼の悲劇は、よくありがちなことではあるが、世間一般の市民から全く理解されなかったことにある。
人は能力に差がありすぎると、人のことは正しく理解できず、自分の器や思考の範囲に合わせて解釈するのみである。
因みに、A級戦犯のA級とは、犯罪の軽重に順位をつけたものでなく、単純に犯罪行為を内容別に分類してA,B,Cとしただけである。
これはアメリカの分類方法であり、ヨーロッパ諸国ではこの様な分類はしなかった。

日本の戦争行為を正当化するつもりは毛頭ないが、東條英機個人の言動については、甚だしく誤解があるように思う。
東條英機と東條内閣の国務大臣ら木戸幸一内大臣らは、政権を投げ出した近衛文麿首相の後任として、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、天皇を敬愛していた東條を敢えて首相に据えることによって、天皇の下命により日米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。

木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。
ただし木戸は勝田龍夫『重臣たちの昭和史』において、「どうせ戦争になる(そしてやれば負ける)から皇族内閣にすると皇室に累が及ぶ。それで東條にした」と語っている。

当時としては海軍も陸軍も内部には戦争を望む声が多かったが、特に組織だって戦争へ導こうとしたのは海軍の方だった。
それが、戦争が終わるとどういう宣伝をしたものか、海軍は戦争回避の善玉に、陸軍は無謀な戦争を主導した悪玉にされてしまった。

内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進したことに対して、秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判したが、首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。

「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。
戦争初期、1942年8月20日にアメリカ抑留から帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていたことも判明している。

昭和20年(1945年)9月11日、逮捕に際して東條は自らの胸を撃って自殺を図るも失敗している。
銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。

笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていたという。

1946年3月6日マッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内光政海軍大臣をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ。」と語り、米内は「同感です」と答えて東條に天皇を守るためにスケープゴートとなるよう要請し、東条はそれを受け入れたとされている。

そのためか、海軍幹部の及川古志郎、長谷川清、豊田副武、井上成美など米内当人を初め米内に近い海軍幹部は裁判で誰も責任を問われず、東條には指揮権のない海軍の真珠湾奇襲攻撃の責任までを問われることになる。
なお、海軍で唯一戦犯の罪に問われた嶋田繁太郎海軍大臣(終身刑、後に釈放)は、当時海軍の実権を握っていた伏見宮博恭王軍令部総長から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と指示されたため開戦を決意する他なかったと語っている。
田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々は、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていた。

辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。
遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

彼は強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。
「モラルの低下」が戦争指導に及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていた。
飯米応急米の申請に来た係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。

また、区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては自らチェックしたりした。
後日に本人は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」と語った。

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、本来は話せばよくわかる人物であったと述べている。

東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。

東条内閣を批判したため懲罰召集されたとする松前重義に対して、保阪正康は「それを裏付ける正確な資料はない」とし、松前に近かった高松宮宣仁親王のことを昭和天皇は、戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し、戦後、親王が発表した手記に激怒したとされている。

東京裁判に当たって東條は、結局日の目を見ることはなかったが、以下のような反論書を用意していた。
「欧米が人道、人権、自由、平等、法の支配などを唱え、“民族主義”といっていた十九世紀は、アジア人にとって欧米による“アジア隷属化の世紀”ではなかったのか。また欧米が資本主義と世界自由貿易によって文明と繁栄を享受したといっても、その陰には原料産地及び製品市場として植民地もしくは半植民地としての地位を強いられ、愚民政策によって民族意識を抑圧されたアジア、アフリカの十数億の有色人種の隷属があったことを忘れてはならない」と訴え、そしてこの大戦の原因を、「大東亜戦争の根本原因は歴史的矛盾の累積であるが、最たる直接の原因は、世界経済の構造変化によって起こった世界恐慌のなかで、持てる国が経済的国家主義、排他主義による資源封鎖の経済戦略を行ったために、持たざる国が窮地に追い込まれ、資源獲得を実力(武力)でせざるを得なくなったことにある」とし、「東亜は過去数世紀にわたってロシアを含む欧米列強の侵略と、今世紀になってソ連の東亜赤化戦略にあい、安定をはかる必要があった。しかも日本は東亜における唯一の独立国家としてその中心的地位にあり、日本は日本自体と東亜の民族国家全体のため、それら侵略に対して防衛する必要があった。よってきたる原因は外部の圧迫にあり、自ら求めたものではない。世界大戦が勃発するには、それ相当の歴史的に根深い要因があるのであって、戦争責任を一方の指導者にかぶせ、国際法上、外交上の開戦責任を論じても、戦争の本質的原因を究明することはできない。一方の国だけが犯罪として戦争を起こすことはあり得ないし、一方が百パーセント平和的だとする主張も問題である。戦争の本質的原因は謙虚に歴史的に反省し、根深い歴史的矛盾まで掘り下げなければ、正しく把握することができない」との訴えを用意していた。

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